本ページはプロモーションが含まれています

Twitterまとめ 歴史

歴史探偵が深掘り!坂本龍馬の本当の凄さ!

昨日の歴史探偵でやってた坂本龍馬の本当の凄さをまとめてみました。

坂本龍馬が生きた幕末は欧米諸国の脅威にさらされ、危機的な状況でした。

坂本龍馬について、陸奥宗光さんは、

「近世史上の一大傑物」

勝海舟は、

「威権があってよい男」

と評していました。

薩長同盟で坂本龍馬は意外な役割を果たしていました。

歴史探偵 坂本龍馬の本当の凄さとは!?

坂本龍馬記念館には薩長同盟の盟約書が展示されていて、同盟の保証人となったのが坂本龍馬でした。

しかし、幕末政治史を専門とする町田明広さんは薩長同盟が結ばれたのは1月21日よりも前のことと考え、

「薩摩藩の要人の日記から木戸孝允と18日に協議が行われていた」

と話します。

20日には薩摩藩主催で木戸の送別会が開かれていることから、何らかの合意に達したことを示しています。

寺田屋事件の真相とは?

薩長同盟の締結後、23日に寺田屋事件が発生しました。

坂本龍馬は幕府の役人から襲撃を受け、逃げ果せましたが、所持していた書類が押収されました。

当時、坂本龍馬は要注意人物としてマークされ、常宿だった寺田屋は監視対象でした。

そんな場所に重要な書類を持ってやってくると言うのは不可解なことです。

そうなると、坂本龍馬は意図して同盟を幕府にリークしたと考えられます。

薩摩藩内には同盟反対派がいましたが、龍馬からすれば同盟する他ないと退路を断つための術策でした。

薩長同盟の書状

薩長同盟の書状には6カ条が記され、坂本龍馬は、

「内容に間違いなく、保証する」

と裏面に記しました。

薩摩側の責任者、西郷隆盛、小松帯刀にもしっかり確認を取ったとされます。

他にも坂本龍馬が関わったのがいろは丸事件で、紀州藩から多額の賠償金を勝ち取りました。

歴史探偵 いろは丸事件

沈没したいろは丸の調査はこれまでに行われ、引き揚げられた品々は展示館にあります。

記録によると、海援隊の貿易船だったいろは丸には400丁のミニエー銃が積載されていたと言われていますが、これまでに一丁も見つかっていません。

渋谷雅之名誉教授は、

「最初から積んでいなかったと言うこと」

と指摘します。

坂本龍馬の嘘

多額の賠償金を得るため、坂本龍馬は嘘をついたのだそうです。

いろは丸の船員の記録によると、進路は紀州藩の主張と一致しています。

その場合、当時の航海法と照らし合わせると、衝突を回避する義務はいろは丸側に発生します。

そこで、坂本龍馬は回避義務は紀州藩の方だったとするため、嘘の進路を主張しました。

さらに世論を味方につけるべく、プロパガンダを展開しました。

日本有数の花街だった丸山で、悪どいのは紀州藩と印象づける歌を流行らせました。

そして、坂本龍馬は30億円近い賠償金を勝ち取ることができました。

佐藤二朗さんは、いろは丸事件で多額の賠償金を支払った紀州藩に同情し、

「紀州藩の人からすれば、坂本龍馬はほぼ悪魔」

と語りました。

また、事故後に坂本龍馬は書状を認め、

「戦争は不可避」

などと騒ぎ立てた結果、交渉に土佐藩、薩摩藩が関与しました。

最後の調査項目は大政奉還で、坂本龍馬の策略が秘められていました。

歴史探偵 大政奉還

1867年10月14日、徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました。

大政奉還です。

大政奉還のきっかけを作ったのは土佐藩で、徳川慶喜に大政奉還を推奨していました。

ただ、藩主の山内容堂は元々、大政奉還に消極的でした。

そこで、坂本龍馬は幕府に知られることを承知の上で1000丁の銃を購入し、芸州広島藩の船で土佐藩に運び入れました。

幕府からすれば、

「土佐は薩長についた」

と判断してもおかしくありません。

そして、山内容堂は大政奉還の建白を決意することとなりました。

佐藤二朗さんは坂本龍馬について、

「既成事実をつくり、退路を断たせる。天才的」

「命をかけて日本を動かそうとした、やっぱりヒーロー」

と評しました。

土佐藩主の山内容堂は幕府の弱体化を認識しつつも、徳川には恩義があると踏み切れない中、坂本龍馬はその背中を押したと言えます。

坂本龍馬は、

「日本を 日本を今一度せんたくいたし申候」

と言う言葉を遺しましたが、佐藤二朗さんは、

「54歳になる自分を洗濯したい」

と話し、近田アナは

「ずいぶんスケールダウンしましたね」

と語りました。

Twitterでの歴史探偵で特集した坂本龍馬への反応

-Twitterまとめ, 歴史
-, , , ,

© 2024 アラ還おやじのコーヒータイム!これっていいんじゃない?