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歴史探偵で特集したどうする家康をまとめてみた

昨日の歴史探偵で特集したどうする家康をまとめてみました。

今回のの調査テーマは

「22歳 家臣の裏切り」

「31歳 最強武将との戦い」

「41歳 命をかけた大脱出」

の3つでした。

この3つが特に徳川家康がピンチを迎えた瞬間だそうです。

家康のルーツ 三河・岡崎

岡崎城がある岡崎市は、かつては三河と呼ばれていました。

安藤弥教授によると、家康はここ岡崎で松平家の跡継ぎとして誕生しました。

現在も家康の産湯に使われたと伝わる井戸が残されています。

当時弱小勢力だった松平家は、織田や今川に囲まれていて、家を守るため今川家に人質に出される一方、家臣らは三河に残り家康の帰りを待ち、密かに資金などを溜め込みました。

そして永禄3年、家康が19歳の時に桶狭間の戦いが起き、今川義元は織田信長に敗れ討ち死にし、家康が三河に戻る事が出来ました。

「若き家康にとって家臣の存在がとても心強かったのは間違いない」

と安藤教授は話しました。

本證寺

家康は勢力拡大のため今川家と戦います。

しかしここで戦費がかさみ不足し始めました。

そこで家康は本證寺に目をつけました。

その理由を探るため小山興圓さんに案内してもらいました。

本證寺の裏手には、戦国時代のものとされる堀などの跡が残されていました。

堀は周辺一帯を囲んでいて、この一体は寺内町と呼ばれる寺院を中心に形成された町で、税の取り立てが免除されていました。

この兵糧をつけ、徴収しました。

しかし、この突然の取り立てに寺は怒り、信者を集め一向一揆を起こしました。

本證寺には家康の忠臣であった本多正信の供養塔が建てられていて、本多正信が一揆を戦った証と伝えられています。

藩翰譜には、

「主君の恩は現世のみ、阿弥陀如来への大恩は未来永劫尽きることはない」

と忠臣だった本多正信が裏切ったその心の内が残されていました。

こうして門徒武士と言う存在が一揆方に入って家康と戦いました。

一向一揆

三河中に反乱は広がり、家臣との分断にあい窮地に陥った家康は、自ら戦場の最前線に立つことを選択しました。

これには裏切った家臣たちの心情が関わっていました。

三河物語には彼らの行動も記載されていて、一揆側についた蜂屋半之丞の場合、家康が駆けつけ声をあげると後ろも見ずに逃げたと記載されていて、いかに信仰のためともどこかに矛盾はあったとされます。

家臣たちの迷いを利用した作戦を行い、一向一揆を鎮圧しました。

そして裏切った家臣の処遇について分かるものが存在します。

家康を支えた忠臣が描かれた

「家康十六将像」

には一揆側についた蜂屋半之丞の姿もありました。

一向一揆と家臣の裏切り

松本さんは、

「戦いたくて戦った人たちだけじゃないはずで戦いが終わったときにいかに自分たちのほうに戻すのかいろんな思いがあったと思う」

など話しました。

河合敦教授によると、

「この一揆は本当に家康にとってピンチで門徒武士以外にもこれに乗じて武装蜂起したため自ら戦場に出て俺につくのか敵につくのかというふるいにかけたと思われる」

と説明し、家臣にとってもどうするがありました。

榊原康政

スタジオに家安を支えた家臣の一人、榊原康政を演じている杉野遥亮さんが登場しました。

榊原康政は、徳川四天王の一人で、文武にすぐれ、合戦で、そして外交で活躍しました。

役について会見では、

「クールな貴公子と紹介されたがどちらかというとマイペースでおそらく成長していく過程で描かれていくんだろうなと思っている」

と話しました。

撮影中の松本さんの様子について、

「会ったのが金陀美具足を着ているシーンで、セリフが何回か飛びそうになった」

と話しました。

生涯を支えた徳川家臣団

改めて徳川の忠臣をドラマで、誰が演じているのかを含めて確認していきました。

「家康十六将像」

についてたくさん江戸時代に描かれていて、絵によって誰が入るかまちまちですが、若い頃からずっと従った重臣が入ることが多く、上の方に徳川四天王が配置され、酒井忠次は大森南朋さん、井伊直政を板垣李光人さん、本多忠勝を山田裕貴さんが演じます。

榊原康政について、

「康の名は家康からもらったりしてしてどんどん近い存在になっていくと考えられる」

など話しました。

大河ドラマに潜入調査

大河ドラマどうする家康の撮影現場に潜入しました。

この日撮影していたのは家康の正室

「瀬名」

を演じる有村架純さんとのシーンでした。

若き日の家康は弱くて頼りない若者で、そこから必死に悩みながら成長していきます。

世界観を作るのが美術チームで統括を担当する山田崇臣さんで、絵で当時の岡崎の町などを再現していました。

イメージは専門家の協力のもと復元し、三浦正幸さんはどうする家康の建築考証を担当しています。

家臣たちの屋敷は立派だと思われますが、江戸時代の農家の方がよっぽど立派で、全体的に貧しく力を貯めていたのが三河武士でした。

岡崎城は石垣ではなく土手で築かれていて、当初の石垣は角度が緩く、石と石の間は隙間だらけで上りやすく土手のほうが登りにくい状態となっていて、質実剛健な家康を体現した町として描かれていました。

その他にも織田信長など様々な武将が収める町が登場します。

尾張に、家康の心情から全然価値観が合わない国とし、ドラマ的に誇張表現をしました。

ドラマで織田信長を演じるのは岡田准一さんで、

「実際に大先輩で家康は信長の事をすごく尊敬していたと思いながらもある種すごい怖い人だとも思っていたと思う。自分が絶対的にかなわないと思っている人に何とか近づこうと思う感覚は自分と岡田くんの関係とリンクできると思う」

など話しました。

戦国最強武将との戦い

永禄12年、家康は因縁の今川家を倒して浜松城に拠点を移しました。

しかし領地の拡大が武田信玄との激突を引き起こしました。

元亀3年、ついに信玄は兵を挙げました。

「どうする家康」

時代考証担当の平山さんによると、信玄の恐ろしさは緻密な戦略にあったそうです。

信玄が攻め込んだ二俣城は、当時川に囲まれた天然の要塞となっていましたが、信玄はこの難攻不落の城にある井戸櫓に注目し、大量のイカダを作って川の上流から一気に流して井戸櫓を破壊しました。

水の手を断たれたことで二俣城は降伏し、信玄はほとんど兵を失うことなく城を落としました。

平山さんによると、武田は実はリサーチ力が大変高いそうで、どこに城があるかなどを忍びや諜報員を使って全部調べ上げていたそうです。

元亀3年12月、家康の居城である浜松城に武田軍が接近し、三方ヶ原の戦いが始まりました。

徳川方は1万1千に対し武田軍は2万余でした。

通説によると信玄の挑発に乗った家康が浜松城から出陣し、徳川軍は武田軍に大敗したとされています。

しかし家康が城から打って出たのは別の理由があったからだと平山さんは考えています。

実は武田軍は三方ヶ原を進軍しつつ、もう一回進路を変えて浜名湖に向かっていたそうです。

浜松に拠点を移したばかりの家康は、兵糧などの物資は浜名湖を通じて三河から運び込んでいたため、信玄に浜名湖の水運を抑えられてしまえば浜松城は干上がってしまうため先のない籠城を続けるか、戦を仕掛けるかとなり、家康は出陣を決断しました。

家康を逃がすため武田の大群に戦いを挑んだ家臣たちは、命を落とし徳川方の戦死者は1000人を超えました。

家康を支えた名将徳川四天王

家臣たちによって家康が生き延びても信玄がいる限りピンチはずっと続くと思われていましたが、これからわずか数カ月後に信玄は亡くなってしまったため、武田軍は甲斐に撤退し、家康は九死に一生を得たそうです。

その家康を支えたのが徳川四天王と呼ばれる井伊直政、榊原康政などです。

井伊直政の甲冑は赤備え、榊原康政の甲冑は

「榊原康政像」

によると胴のところに龍が描かれていたそうです。

命をかけた大脱出

家康の伊賀越えは伊賀を通って三河にたどり着いたと言われていますが、近年別の説が浮上しています。

三重大学の藤田さんが注目するのは家康の感謝状です。

その送り先は伊賀ではなく甲賀でした。

なぜ家康は伊賀を避けなければならなかったのでしょうか。

天正伊賀の乱が関係しています。

家康と34人の家臣のルートを辿ってみました。

滋賀県甲賀市では、35人目の男が重要な役割を果たしたと言われています。

長谷川秀一です。

織田家家臣で、家康一行を導きます。

しかし伊賀を通らなければならない場所があります。

この時に一役かったのが家康を援助した和田氏です。

家康一行は柘植に到着しました。

徳永寺にある葵の紋は、家康が無事にここを通過したという証です。

家康たちは34人無事に三河に帰還しました。

徳川家康の伊賀越えについては、痕跡がいくつか残っています。

家康は75歳で亡くなりました。

Twitterでの歴史探偵で特集したどうする家康への反応

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