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歴史探偵でやってたのは今川義元だった

大河ドラマ、どうする家康で徳川家康に影響を与える今川義元にスポットを当てていました。

最新研究から今川義元の実像に迫り、ドラマで今川義元の息子、氏真を演じる溝端淳平さんがゲストとして登場しました。

佐藤二朗さんは今川義元について、

「桶狭間の戦いで織田信長に敗れた武将という程度しか知らず、徳川家康に影響を与えたほどには思えない」

と話しました。

そんな今川義元の人生には3つのピンチがあったそうです。

希代の戦略家だった今川義元

京都は東山区にある霊源院には、中国で編纂された仏教書

「碧巌録」

が所蔵され、今川義元は武士ではなく僧侶としての道を歩むべく勉強に励んでいました。

諸説はありますが、今川義元は今川家の5男で、家督を継ぐはずではありませんでした。

しかし、今川家は甲斐の武田家と緊張状態にあった上、当主で長兄の氏輝が24歳で死去してしまいます。

骨肉の争いとなった家督争い

後継ぎに選ばれたのが今川義元で、兄である恵探と骨肉の争いを繰り広げることになりました。

恵探軍の拠点、久能山は天然の要害で、井戸もあったことから兵糧攻めで落とすことは難しいと思われました。

一方、今川義元は足利将軍家と繋がりがあり、家督承認のお墨付きが得られ、将軍家と深い関わりがあった北条家を味方につけることに成功します。

こうして恵探に勝利し、今川家当主となりました。

河合敦さんは今川義元について、

「家督争いで今川の家臣を味方に引きつけようというのでなく、将軍家、北条家に注目した視野の広さを持っていた」

と語りました。

京を模したまちづくり

修行していた霊源院では師匠から管中窺天、つまり視野や見識が極端に狭いを戒める漢詩を送られていました。

今川義元は京を模したまちづくりを行い、戦国時代随一とされる歌人の冷泉為和をはじめ、京の文化人を招聘しました。

冷泉為和

冷泉為和は隣国の甲斐にも赴いていて、前田利久さんは

「政治的な目的があったと思う」

と話します。

天分11年には11回も武田の歌会に参加していて、その前年に武田家ではクーデターが勃発し、武田信玄が実父を追放して当主となっています。

建前は歌会ですが、武田家の内情を探る狙いがあったとみられるそうです。

そして、今川家、武田家、北条家による三国同盟が締結され、10年以上も続いたのは戦国時代は異例の長さだそうです。

河合敦さんいわく、

「冷泉為和はVIPでスーパースターで、武田信玄が和歌好きだったことから、今川義元は内情を探るために遣わしたと考えられる」

と話します。

文化を外交の武器として使ってた今川義元

今川義元は文化を外交の武器として使っていました。

また、他国の使者を招く茶室からは富士川、三保松原をモデルにした景色、富士山を臨むことができ、迎賓館的な役割もありました。

桶狭間の戦い

桶狭間の戦いのきっかけは今川義元が尾張へ出陣したことで、織田信長と戦うための前線基地とも言える大高城を救援する目的がありました。

4つの砦に囲まれ、その面積からして軍勢は2000人ほどと考えられます。

一方、今川軍は2万5000とかなり大掛かりでした。

大高城を守っていたのは鵜殿氏で、日本有数の水軍、熊野水軍と関わりがありました。

戦国時代、大高城のすぐそばまで海が迫り、救援後には信長の経済基盤である熱田、津島を水軍の力で攻略しようという狙いがあったと考えられます。

豊田将也さんは、

「桶狭間の戦いがあった当時の伊勢湾の気象を分析したところ、大高城から熱田まで追い風が吹くことで、船であれば20分で到着した。逆風であると、1時間30分を要することになる」

と話しました。

しかし、1560年5月19日、突如として大雨に見舞われ、今川義元は討ち取られてしまいます。

佐藤二朗さんは、

「将軍のお墨付きを得て家督争いで有利に立ったり、文化人を外交の武器として活用するなど今川義元は戦国時代を代表する人物と思えた」

と話しました。

大河ドラマで氏真を演じる溝端淳平は、

「より一層、義元を尊敬できるようになった」

と話しました。

なお、今川家は氏真の代で滅亡することになりますが、高家という旗本になります。

Twitterでの歴史探偵でやってた今川義元への反応

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