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歴史探偵でやってたのは伊能忠敬の日本地図だった

昨日の歴史探偵でやってたのは、伊能忠敬の日本地図でした。

55歳から日本全国を歩いて測量した伊能忠敬を特集していました。

見えてきたのは熱意と苦労、高い技術力、知られざる協力者でした。

約200年前に伊能忠敬が手掛けた日本地図を紹介しました。

伊能忠敬は商人として成功を収め、50歳の時に隠居し、天文学を学びました。

その5年後、地図作りをスタートさせます。

伊能忠敬の日本地図

伊能忠敬が手掛けた日本地図は約9m四方で、細かな地名がびっしりと記されています。

しかし、伊能忠敬記念館の学芸員、石井七海さんは、

「伊能図は3種類ございまして、こちらは中くらい」

と明かしました。

最も大きい大図は、体育館を埋め尽くすほどの大きさだそうです。

記念館には伊能忠敬直筆の書物が所蔵され、当初の目的は地図作りではなく、緯度1度の距離を測ろうとしていたそうです。

当時、天文歴学者たちの課題は地球の大きさを導き出すことで、緯度1度の距離が分かれば、360倍することで地球の大きさが分かるとされました。

誤差を小さくするためには、南北に長い距離を計測する必要があり、伊能忠敬は江戸から蝦夷までの距離を測ろうとしました。

幕府からの許しを得る

幕府からの許しを得る上で、伊能忠敬は蝦夷の測量をして地図を作るという口実を考えました。

異国の船がやってくるなか、国を守るため正確な地図が必要だった幕府にとっては願ったり叶ったりで、認可しました。

測量する上で、伊能忠敬が正確な歩幅で歩けるようになったのは50歳を超えてからの日々の訓練の賜物でした。

蝦夷で南側の海岸線を測量し、足掛け17年、10回にわけて全国を測りました。

その過程で、伊能忠敬は念願だった緯度1度の距離、約110.7kmと導き出しました。

現在の測定値と0.3%の誤差しかありません。

河合敦さんは、伊能忠敬の蝦夷測量に幕府が注目し、日本全国の地図を制作することになったのではないかと考え、伊能忠敬自身もやりがいを感じていたと予想しました。

また、正確な測量をする上で約180cmごとに印がついた

「間縄」

距離を表示するからくり

「量程車」

を使っていたそうです。

琵琶湖北岸約を測量

菱山剛秀さんの指導、監修のもと、琵琶湖の北岸約2.5kmを測量しました。

測量には同志社大学の地理学研究会、伊能忠敬の親戚にあたる押尾駿吾アナウンサーが参加しました。

草が繁茂し、歩くのも困難な悪路が行く手を阻み、木々が邪魔して方位を記録するのにも難儀していました。

また、歩けない海岸は船で測量することになりましたが、同じ場所にとどまるのが難しかったそうです。

幾多の障害をクリアし、約7時間をかけて測量が終了しました。

得られたデータから地図にする作業に約1時間半を費やし、押尾アナらは力作だと手応えを感じていました。

押尾駿吾アナらは琵琶湖北岸の地図をつくり、地形や地名などを書き加えていました。

伊能忠敬は娘に宛てた手紙で、測量隊の隊員について不満をこぼしていて、墨を斜めにすってしまっていて仕事ぶりにも悪影響だと記していました。

また、夜間にも天文観測する必要があったため、伊能隊では飲酒が禁止でした。

幕府の公式事業

伊能忠敬の日本地図には極小の穴があいていて、徳島大学の平井松午名誉教授によると、オリジナルから地図を複製する目的があったそうです。

さらに伊能忠敬らは伊豆半島の東側を1801年、1815年と2度測量し、後者では針穴の数から細かく測量していたことを示していました。

第4次測量までは伊能忠敬の個人の活動でしたが、以降は幕府の公式事業となり、人、物、金がつくようになっていました。

伊能忠敬の測量は幕府の直轄事業になったことで、人材も増え、各藩も協力的になったそうです。

浦島測量之図

伊能忠敬らの測量の様子を描いた

「浦島測量之図」

では70人以上が測量が参加し、幕府の知らせを受けて村から集められたそうです。

測量を手伝ったり、荷物やわらじを運搬する人らの姿が見て取れます。

山口県にあった徳山藩の史料には、測量隊に振る舞った食事の記録が記され、江戸料理の研究家である車浮代さんが再現してくれました。

非常に高価だった卵を始め、滋養強壮の効果が期待されるぎんなんや山の芋といった食材が使われていました。

鳥取市に暮らす石井洋さんのご先祖は、伊能忠敬と対面したことがあり、測量について聞かされたそうです。

庶民にとっての測量の知識

江戸時代、村と村の境界線をめぐって土地争いが起き、裁判では地図の提出が求められました。

庶民にとって測量の知識は欠かせなかったそうです。

伊能隊との交流は最先端の技術に触れる好機でした。

55歳の時に測量を始めた伊能忠敬ですが、マラリアや止まらない咳など病気に悩まされ、最終的には歯が1本だけになり、好物だった奈良漬けすら食べられなかったそうです。

河合さんは、

「ある意味、普通の人ですが、コツコツとやり続けたことが大きな成果に繋がった」

と語りました。

Twitterでの歴史探偵でやってたのは伊能忠敬の日本地図への反応

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