本ページはプロモーションが含まれています

Twitterまとめ 歴史

歴史探偵が掘り起こす!家康の顔の持つ意味とは?

歴史探偵でやってたのは、家康の顔でした。

歴史探偵が掘り起こした家康の顔の持つ意味とは何だったのでしょう。

昨日の歴史探偵をまとめてみました。

徳川宗家に伝わる家康の顔

徳川家広さんは徳川宗家の19代当主で、徳川家に代々伝わる貴重な品々を保管する倉庫を案内しました。

江戸時代に描かれた

「東照大権現像」

は徳川家康を示していると思われますが、東照大権現という神として祀られた存在で、徳川さんは、

「家康公の肖像画としてどれほど実態に近いのか分からない」

と話しました。

晩年の家康に仕えた天海は家康の神格化に努め、神となった家康の姿を世に広めることにも貢献しました。

また、3代将軍で、家康の孫にあたる家光は、日光東照宮を絢爛豪華に作り変え、家康の肖像画を絵師に描かせたとされます。

日光山輪王寺に所蔵されていて、学芸員の佐々木茂さんは、

「身近に接したことのある人しか見たことのないようなお姿を描かせている」

などと語りました。

なお、この

「霊夢像」

は10点ほど残されていますが、家光は祖父である家康を古代の天皇に近い存在として理想化して描かせていたと考えられます。

作家の加来耕三さんは徳川家康の顔について、

「時代によって変わったような気がする」

と話します。

三方ヶ原の戦いでは武田信玄に大敗し、家康は信玄の立ち居振る舞い、表情を似せたとされ、それらは大権現に求められるような素質と言えました。

17世紀、イタリアで出版された

「著名武将列伝」

があり、様々な武将の生涯がまとめられています。

そのなかに徳川家康の記述もありますが、記録をもとに想像で描かれたものです。

生前の顔を伝える秘蔵の家康木像

芝東照宮は1617年、増上寺の境内に創建され、御祭神は徳川家康でした。

生前の家康が作らせたと伝わるご神像があり、肖像画における丸みを帯びたかんばせ、大きな目とは打って変わって、切れ長の目が特徴的です。

家康は松平の姓を名乗っていた頃から浄土宗に帰依し、

「南無阿弥陀仏」

を繰り返し書いていました。

徳川家によって家康は神として祀られるだけでなく、阿弥陀仏との一体化も推し進められました。

そんな家康は武田信玄に三方ヶ原の戦いで大敗を喫し、

「しかみ像」

と呼ばれる肖像画を描かせました。

敗北した惨めな姿を戒めとしました。

しかし、原史彦さんは、

「三方ヶ原とは全く無関係」

と話します。

しかみ像については、徳川美術館の創設者、徳川義親がエピソードを披瀝し、原さんは、

「家康が大敗した戦を振り返り、悪いところ、弱点を見つめ直す。これこそが成功の秘訣だと、日本人の琴線に触れたと想う」

と語りました。

しかみ像の構図は、半跏思惟像を想起します。

作家の加来耕三さんはしかみ像について、

「三方ヶ原の戦いで負けた家康のようにも見えるし、不動明王のようだと言われればそうかなと思う。見る立場、時期によって違うような気がする」

と語りました。

これぞ徳川家康!たどりついたその姿とは

近年発見され、研究者の間で注目を集めていると言うのが徳川家康の肖像画の下絵です。

室町幕府13代将軍、足利義輝の肖像画の下絵では疱瘡の跡、額や眉間にシワが描かれていましたが、完成画では修正が加えられ、将軍としての威厳を醸しています。

つまり、下絵は顔の特徴を正確に捉えていると言えるのかもしれません。

寺社に奉納する古典画を多く手掛けてきた日本画家の諫山宝樹さんが下絵をもとに最晩年の家康の顔を描いてくれました。

監修を務めた松島さんは、

「荒々しさは影を潜め、優しさ、人間としての包容力が垣間見えた」

と話します。

徳川家康の肖像画の下絵をもとに彩色などが施された完成画がお披露目され、各地で肖像画を見てきた山田アナウンサーは、

「神として描かれた東照大権現像に似ているかな」

と思ったそうです。

加来耕三さんは、

「没後、これだけ肖像画が描かれたのは珍しいと思う。いかに江戸時代、家康と言う人が思い出されたのか、崇められたのか」

と語り、佐藤二朗さんは、

「もうどれが正しい、間違いとかいいかなって言う気がする」

と達観できたそうです。

Twitterでの歴史探偵で特集した家康の顔への反応

-Twitterまとめ, 歴史
-, ,

© 2024 アラ還おやじのコーヒータイム!これっていいんじゃない?