本ページはプロモーションが含まれています

Twitterまとめ 地方の話題 歴史 鹿児島

歴史探偵は島津の強さのルーツをやってた

昨日の歴史探偵は、島津の強さのルーツについてやっていました。

徳川家康も一目置いた戦国大名、島津。

薩摩の島津は幕末、日本を動かす原動力にもなりました。

佐藤二朗さんが大河ドラマで演じた比企氏は島津氏と深い関係にあり、初代の母は比企氏の出身です。

源頼朝から鹿児島と宮崎の一部の守護に命じられたのが島津の始まりです。

関ヶ原の戦いでは徳川家康と敵対し、敗北したにも関わらず、本領安堵とされています。

戦国大名島津

戦国時代、鉄砲は国友や堺など都に近い場所で生産されていましたが、現在の都城市では薩摩筒が生まれていました。

鉄砲を使う上で鉄、火薬を作るための硫黄と硝石が必要ですが、鉄砲が伝わった種子島は砂鉄が豊富にあり、古くから鍛冶が栄えていました。

それに加えて、火山活動が続く硫黄島では多くの硫黄が産出し、高純度とあって精錬の手間がかかりませんでした。

採掘現場から港まで直線距離にしてわずか2kmで、運搬も容易でした。

残るは硝石で、海外のものに頼るしかありませんが、鹿児島県坊津は天然の良港で、日本と中国、東南アジアを結ぶ交易ルートの中継地でした。

島津氏は、硝石を入手する上で最大限に利用したと考えられます。

原口泉教授曰く、

「島津氏ほど鉄砲づくりの環境が整っていた戦国大名はいない」

と話し、

「鹿児島の港にはルソン、ベトナム、カンボジア、タイ、ヨーロッパの船がやってきた」

と話します。

薩摩軍の軍法

高城には、帯のように細長く伸びた平場

「帯曲輪」

が二重に備えられ、守る側の島津氏は、鉄砲隊を並べて迎撃していました。

また、江戸時代の書物には薩摩軍の軍法が記され、平地での戦いで取り入れられました。

3人1組となって撃ち手が代わる代わる前進して放っていく戦法で、火縄銃の装填から発射までの時間を短縮できます。

軍事に詳しい小谷賢さんは、

「火縄銃は防御的に使うのが基本的な使い方だが、薩摩は攻勢にも使える、制圧用の武器と捉えていたのだと思う」

と語りました。

島津家16代当主の島津義久は武士に鉄砲をもたせ、日頃から鍛錬を積ませていました。

平地での戦いで鉄砲を運用する場合、訓練も必要で、島津氏は相当数の鉄砲を揃えていなければなりません。

大量の火薬なしには成立せず、自給自足できていたと考えられます。

また、16代目当主の島津義久には3人の弟がいて、次弟は優れた軍事指揮官、3人目は占領地域を巧みにまとめるマネジメント力、そして、末弟は猛将として軍功をあげました。

そんな島津氏は関ヶ原の戦いで西軍につき、徳川家康に敗北してしまいます。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いで、島津義弘は敢えて敵に向かって突撃することで戦場からの脱出を試み、鉄砲隊が突破口を開きました。

そんな島津氏は、海外交易で大阪の商人と繋がりがあり、薩摩までの船の手配にも成功していました。

戦いの後、西軍に味方した大名の多くが取り潰し、領地の削減といった厳しい措置がとられたなか、島津義久が徳川家康との交渉に臨みました。

表向きは恭順の姿勢を見せるも、新たな城を築いていました。

現在の鹿児島城を指し、侵入を防ぐための防壁の痕があります。

高さ1mもあれば機能しますが、鹿児島城のそれは高さ10m以上です。

高城における帯曲輪を再現したかのようで、千田嘉博さんは、

「家康に戦いをさせない、攻めさせないというカードの1つだった」

と語りました。

加えて、義久は海賊を討伐し、島津の力で海の安全を守ったことを家康に報告するも、島津氏による自作自演だったという疑惑があります。

島津氏の存在意義を無視できなくなった家康は本領安堵としました。

原口泉さんは、

「関ヶ原の戦いの後、西軍についていた大名の中には徳川家康に恭順を誓うも、容赦なく取り潰した」

と説明しました。

本領安堵を勝ち取った島津氏は海外貿易を続け、幕末に雄藩として活躍することになります。

Twitterでの歴史探偵で特集した島津への反応

-Twitterまとめ, 地方の話題, 歴史, 鹿児島
-,

© 2024 アラ還おやじのコーヒータイム!これっていいんじゃない?