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昨日の歴史探偵は東京遷都大作戦だった

昨日の歴史探偵は、東京遷都大作戦でした。

明治における東京遷都の舞台裏を解説していました。

平成30年2月の日本の首都に関する質問に対する衆議院の答弁書を紹介しました。

首都を東京都であると直接規定した法令はないそうです。

実は、都を他所へ移す天皇の宣言は、明治維新の際に出されていません。

遷都騒動徹底調査

京都府左京区にある老舗の和菓子店は、350年に渡って御所に朝食を届けていたそうです。

お餅の周りを塩味の粒餡で覆った

「御朝物」

を唐櫃に収めて運んでいました。

京都では、御所の御用ということで様々な文化や技術が花開きましたが、明治政府は都を移そうと発案します。

天皇の外出は滅多に無かったそうですが、1863年、孝明天皇は外国勢力を退ける攘夷祈願のため、237年ぶりに行幸して上賀茂神社を参拝していました。

時の政権は、行幸という前例に着目し、天皇の東京行幸を計画しました。

目的は、東日本の人々を救うためとされ、1868年、明治天皇は鳳輦にお乗りになり、京都の人々は華やかな行列を拍手をもって見送りました。

24日かけて一行は東京に到着し、江戸城に入りました。

さらに市民には、酒を振る舞ったそうです。

明治天皇から東京の人々に下賜されたお酒は、新政府が確保できたのには限りがあり、普通のお酒に混ぜて振る舞っていました。

人々は商売を休み、歓呼しました。

同年12月、天皇は京都へ還幸しました。

東京行幸に秘められた遷都の目的

創業240年の老舗和菓子店で、9代目を務める石黒鐘義さんは、明治天皇の行幸の様子を描いた絵を披露しました。

大磯の浜では地引網漁、熱田では農作業を見学し、褒美としてお菓子を配るべく、石黒さんの店に注文したそうです。

店は饅頭をつくり、天皇はお礼として袱紗と茶碗を下賜しました。

大久保利通は、君主自らが国民の前に姿を見せて、国をまとめることを重視し、伝統としきたりを重んじる京都では改革を断行できないと考えていたそうです。

東京行幸は世間で話題となり、数々の錦絵に描かれて人々がこぞって買い求めました。

東京土産としても人気が高かったそうです。

河合敦さんによると、伝統やしきたりを重んじる京都では新しい改革がしづらく、たった1人の反対者が有力な公家や寺社に働きかけ、覆ってしまったことが記録に残っているそうです。

大久保利通ら明治政府の人間からすれば、京都を舞台にして近代国家をつくることは難しかったとされます。

いよいよ東京遷都へ

明治天皇は京都へ還幸すると、京都の各町内に土器を贈呈しました。

明治政府は、天皇が京都の人々を大切に思っているというメッセージを発信することで、人々を安心させました。

1869年、2度目の東京行幸が発表され、皇后、太政官も同行することになりました。

すると、京都の人々は東京遷都と推測し、取りやめを嘆願しました。

明治政府は新しく都を定める奠都で、京都は都として継続するとアピールしたそうです。

1869年3月28日、明治天皇は江戸城から名前を変えた東京城に入り、政府は東京城を皇城と呼ぶことを決めました。

御所の御用を務めていた店の中には、東京に移すこともありましたが、木型で和菓子をつくる店、お味噌屋などは今も京都で商いを続けています。

白味噌は明治の初め、西京みそと呼ばれました。

東京に対して、京都は西京であるという思いから名付けられたそうです。

佐藤二朗さんは

「京都の人々は今も矜持を保ち、それが京都に魅力があるんだろうと思いました」

と語りました。

また、東京遷都ではなく奠都とアピールしたのは、明治政府の苦肉の策だと感じたそうです。

Twitterでの歴史探偵で特集した東京遷都大作戦への反応

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