本ページはプロモーションが含まれています

Twitterまとめ 歴史

歴史探偵でやってた大奥をまとめてみた

昨日の歴史探偵でやってた大奥をまとめてみました。

ドラマの大奥ではなく、歴史上の大奥の紹介です。

華やかなイメージの裏で繰り広げられていた熾烈な出世競争、最強の老女が登場しました。

大奥の真相

埼玉県川越市の喜多院には徳川家光の乳母、春日局の部屋が残され、江戸城から移築されたものとされています。

大奥の役目とは将軍の跡継ぎを生み、育てることで、大奥の頂点に君臨する女性は老女と呼ばれました。

老女には、10人の世話係がいたそうです。

老女が大奥の頂点とするなら、最下層が御末です。

水汲み、清掃、駕籠の担ぎ手など、今で言う家事労働を担っていました。

御末にとって1つの目標が御茶之間で、上級女中とも面会できました。

御三の間は上級女中の部屋の清掃、雑用を任され、表使ともなると幕府に大奥の意向を伝えました。

大奥の研究者、畑尚子さんは出世競争で必要な要素にやる気、アピール力、上級女中に可愛がられる素養を挙げました。

貫地谷しほりさんは、大奥を現代の会社に喩え、大石学名誉教授は、

「上級女中が好かれると引き上げてくれる、運、器量が出世の要件」

と語りました。

身分が低ければ低いほど、辞めることができました。

老女は、5~6人いて、定年もなければ、任期もありませんでした。

江戸後期の大奥

江戸時代後期、大奥を実質的に支配したとされるのが瀧山です。

埼玉県川越市に暮らす瀧山宜弘さんは瀧山の子孫で、火災で大奥のほとんどが焼失すると、多額の見舞金を受け取ったことを示す史料を見せてくれました。

大奥の役目は将軍の跡継ぎを生み、育てることです。

江戸城で生まれた将軍のうち、正室の子は歴代わずか1人で、それ以外は側室からでした。

老女は側室の候補を決める権限を持ち、将軍はその候補者のなかから選んでいました。

大石さんは、

「将軍に気に入られる前、老女にまず気に入られる必要があった」

などと説明しました。

姫路藩は、特産物である高砂染を瀧山に贈答していました。

また、幕府から領地の一部を取り上げられそうだった徳川慶頼は、瀧山に仲介を依頼した結果、将軍が願いを聞き入れてくれました。

慶頼は、返礼品を瀧山へ贈っています。

徳川慶喜は老女、瀧山について、

「実に恐るべき者にて、老中以上の権力あり」

と評していました。

幕末の大奥

幕末、武家出身の姫が徳川家定の正室として輿入れしました。

後の天璋院篤姫です。

しかし、家定は病死し、徳川家茂が13歳で14代将軍となりました。

家茂の正室は天皇の妹、和宮です。

薩摩藩出身の天璋院、天皇家の和宮はうまくいかない中、家茂が両者の間を取り持ちました。

ところが、家茂は21歳の若さで死去してしまいます。

薩摩藩、長州藩が新政府を樹立し、15代将軍の徳川慶喜は戦いを放棄してしまいました。

和宮は徳川家存続の嘆願書、天璋院はかつての家臣だった西郷隆盛に書簡を認めました。

西郷隆盛は江戸城の攻撃中止を決めるも、徳川の将兵たちに不穏な動きがみられました。

大奥は徳川家の家臣に最初で最後の命令書を出し、

「騒擾を起こさないこと。それが家康公以来のご奉公」

と言う内容に家臣たちは従いました。

大奥は戦火から江戸の人々、市街を守ったと言えます。

貫地谷しほりさんは、江戸城の無血開城に大奥が少しでも関わっていたことに感銘を受け、

「人が一生懸命生きてることがドラマになって、歴史を作ってる」

と語りました。

大石さんによると、和宮、天璋院篤姫の関係は良くなり、勝海舟が二人を江戸の街を案内したそうです。

大奥が無くなった後、女性たちの中には培った教養を活かして茶の湯や華道の先生になった人もいます。

Twitterでの歴史探偵でやってた大奥への反応

-Twitterまとめ, 歴史
-, ,

© 2024 アラ還おやじのコーヒータイム!これっていいんじゃない?