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歴史探偵が迫る!江戸の将軍たちの実像!

昨日の歴史探偵でやってた江戸の将軍たちをまとめてみました。

徳川家康を始めとした江戸時代15人の将軍たちの巧みな戦略に迫りました。

徳川家康から始まって慶喜まで15人の将軍たちがいかにして260年も続いた泰平の世を築いたのか。

その鍵を握るのが江戸の町でした。

江戸時代の将軍たちが天下を治めるために用いた秘策

過去に発掘調査が行われたときに東京ミッドタウン日比谷の地域で、金箔瓦が発見されました。

虎ノ門にあるオフィス街には、現在でも江戸時代に築かれた石垣が残り、江戸城の周囲にある外堀に面しています。

江戸城を南から攻めてくる敵から防衛するための拠点として、櫓が建てられました。

内藤家長は、家康によってその重責を担わされました。

江戸城の周囲

江戸城の周囲には、家康によって大名屋敷が建てられ、鉄壁の防御が築かれました。

さらに、関ヶ原の戦いの勝利後、徳川家に服従するか態度を明確にしない外様大名が存在し、健在であった豊臣家に接触を続けていました。

家康は外様大名たちに、江戸に大名屋敷を建て、人質を差し出すように命じました。

伊達政宗は、現在の日比谷公園の土地に屋敷を建て、妻子を住まわせました。

徳川家康は、江戸城周辺に信頼できる譜代大名たちを住まわせ、その外側には外様大名たちが住んでいました。

また、江戸城の内側と外側でエリアが分けられ、江戸城の内側には黒田長政や福島正則が居住していました。

江戸城の外側には、関ヶ原の戦いで西軍に属した毛利家や島津家が居住し、地盤が良くありませんでした。

徳川綱吉の治世になると、大名たちを従わせるためのイベントが行われるようになりました。

徳川綱吉の天下を治めた秘策

生類憐れみの令で知られる徳川綱吉は江戸城にて、年始や節句などの儀式を年に30回以上催しました。

正月の挨拶回りは江戸城の本丸御殿で行われ、深井雅海氏の監修のもと、最先端のCG技術で再現しました。

100畳の大広間は上段、中段、下段に分けられ、上段には将軍が鎮座していました。

下段の当主は将軍を仰ぎ見ることはできず、畳に顔を伏せたままでした。

将軍の権威を知らしめ、大名たちの服従を確認する場でもありました。

さらに将軍は朝廷から与えられる官職に推薦できることができ、大名たちが座る位置は官位で左右されました。

伊達政重村

伊達政宗の子孫、重村は薩摩藩主の島津重豪をライバル視していました。

両者は少将の官位を与えられていましたが、琉球使節を江戸まで連れてくると言う実績が評価され、重豪は中将に昇進しました。

重村は莫大な出費を強いられる土木工事を請け負い、350億円を投じました。

後年重村は、中将に昇進を果たしました。

深井さんは、

「大名たちが連帯せず、官位をめぐって争ってくれる方が、幕府にとっては好都合だった」

と話しました。

備前岡山藩池田家

備前岡山藩の池田家は老中から将軍の側近に至るまでお金を配り、現在の価値にして3億2000万円に相当しました。

河合敦さんによると、儀式において大名たちがどの位置に座し、どう動くのかを記録した文献は数多く残っています。

子孫のために残したり、儀式当日に間違えないよう、今で言うカンニングペーパーもありました。

徳川吉宗の天下を治めた秘策

8代将軍の徳川吉宗は庶民の声を目安箱で募りました。

徳川宗家を継いで第19代当主となった徳川家広氏によると、将軍は目安箱を解錠する鍵を肌身離さなかったそうです。

庶民は役人、領主の不正を訴えていて、統治システムに弊害が起きていたことを示しています。

役人が増える中で不正や賄賂が横行し、徳川吉宗は目安箱を通して不正に関する情報を収集したのです。

真偽は将軍直属の隠密、御庭番に調べさせていました。

郡上一揆

過去に岐阜県郡上市で、貧困に喘ぐ農民が年貢の取り立てを厳しくしようとした藩に抵抗した事件があり、郡上一揆と呼ばれました。

徳川吉宗による調査の末、藩と老中の不正が判明し、郡上藩はお取り潰しとなりました。

佐藤二朗さんは徳川吉宗が設置した目安箱について、

「庶民とつながる重要なホットライン」

と表現しました。

また、

「徳川の将軍たちはシステムを修正させながら、260年続いた泰平の世を築いたと感じた」

と話しました。

Twitterでの歴史探偵が特集した江戸の将軍たちへの反応

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