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歴史探偵が迫った長谷川等伯の幻の障壁画とは!?

昨日の歴史探偵でやってた長谷川等伯の幻の障壁画をまとめてみました。

長谷川等伯が描いた障壁画に秘められた、豊臣秀吉のために凝らした巧みな演出とは何だったのでしょうか。

長谷川等伯の代表作には、

  • 松林図
  • 竹林猿猴図
  • 波濤図

などがあります。

そして、長谷川等伯は風景の他、仏画、肖像画も手掛けていました。

長谷川等伯の幻の障壁画

国宝に指定されているのが、長谷川等伯が豊臣秀吉のために描いた障壁画です。

長谷川等伯の作品の研究者で日本画家の安原成美さんは、

「何か当初の姿とは違うように感じる」

と話はました。

楓図に着目すると、襖を境にズレが見られます。

障壁画の多くは後世に一部が切り取られ、姿を変えています。

1682年、障壁画がある智積院では火事が発生しました。

また、明治時代には盗難事件も起きていました。

さらに昭和には火災に見舞われ、多くの作品が焼失してしまいました。

障壁画は被害を逃れた部分が切り取られ、新たな建物を飾る絵、屏風に姿を変えたそうです。

松に黄蜀葵図を高精細カメラで撮影しました。

すると、修正の痕跡は20ヶ所以上に及んでいることがわかりました。

安原さんは、

「観る側が自然に絵に入っていけるよう、最大限処置をしたのかなと思う」

と語りました。

松嶋雅人さんの話によると、長谷川等伯と同時代に生きた狩野永徳は安土城、聚楽第などの障壁画を手掛けました。

しかし、それらは失われてしまいました。

長谷川等伯の作品が残存していると言うのは、狩野永徳らの作品がどのようなものだったか想像する手がかりになるそうです。

また、豊臣秀吉は長谷川等伯に対し、狩野派にはない新たな作風の絵を描かせ、革新者と言うイメージを高めようとしていたそうです。

祥雲寺の建物に飾られていた長谷川等伯の障壁画

長谷川等伯の障壁画は、豊臣秀吉が建てた祥雲寺の建物に飾られていました。

その祥雲寺は現在の智積院の境内にあります。

発掘調査で見つかった礎石から建物の規模を導き出すことに成功しました。

礎石の位置、形状をもとに建物をCGで復元し、日本画家の安原成美さんは写真から松に黄蜀葵図が修正される前の姿に挑みました。

失われた部分は、等伯の作品を参考に描き足したそうです。

昭和の火災の前に撮影された障壁画

東京文化財研究所には、昭和の火災の前に撮影された障壁画の白黒写真が残され、絵画修復を専門とする荒井経さんの監修のもと、絵画のカラー化を試みました。

この柏図には白い椿、柏の葉が描かれています。

現存する雪松図と火災で焼失した枇杷図は元々はつながった1枚の絵でした。

息子の供養

秀吉が祥雲寺の建物を造ったのは3歳で早逝した息子の鶴松を供養するためでした。

その証として秋の草花は、子どもの目線の高さで描かれていました。

松嶋雅人さんは、

「四季の花鳥の風景を同時に見ることはできない。現世にはないことなので、理想の世界、死後の世界を描いているといえると思う。鶴松の弔いに大きく意味をなしている」

などと語りました。

長谷川等伯の足跡

長谷川等伯は、現在の石川県七尾市出身です。

その地元の寺には、仏涅槃図が所蔵されています。

色使いから被写体の激情を高め、描写は緻密な作品です。

日蓮宗の寺から依頼を受け、数多くの作品を描きました。

京都には日蓮宗の本山、本法寺があります。

狩野派が描いていた住職の肖像画すらも担当していました。

さらに長谷川等伯は堺の豪商出身である日通とも交流を深め、茶人らと人脈を築いていました。

その後、千利休が建設に関わった大徳寺山門の天井画の絵師に起用され、京都でも屈指の絵師に登りつめたのです。

さらに北陸に勢力を伸ばしていた織田信長の妹とも接点を持ったそうです。

そして、秀吉の側近だった前田玄以へつながりました。

前田さんは、

「豊臣秀吉の遺児、鶴松の菩提を弔う寺の建設に携わり、長谷川が抜擢された」

と話します。

長谷川等伯は絵師としての優れた力量、時流を読む力に加え、運も持っていました。

狩野永徳の急死により、狩野派は一時的に力を弱めていました。

佐藤二朗さんは、

「一介の地方絵師で終わる自分じゃない。才能を出さないと死ぬに死にきれないといった気概を感じた」

と話しました。

Twitterでの歴史探偵が迫った長谷川等伯への反応

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