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歴史探偵で特集したのは情報戦関ヶ原だった

昨日の歴史探偵で特集したのは情報戦だった関ヶ原の戦いでした。

情報戦 関ヶ原

奈良大学の外岡慎一郎教授のもと、関ヶ原の戦いまでの2ヶ月間に大名たちが交わしていた500通の書状を分析しました。

1600年7月上旬、挙兵した石田三成は家康との兵力差を埋めるべく、毛利輝元にアプローチしました。

通説では挙兵計画に巻き込まれ、西軍の総大将に祭り上げられたとされてきましたが、書状によると、光成の挙兵を知った輝元は広島から大阪へ向かっていました。

2日後には到着していたと言い、豊臣秀吉の中国大返しですら10日を要していましたが、海岸工学を専門とする神戸大学の内山雄介教授は、

「潮流を掴みつつ、一生懸命漕ぎ続ければ到着は可能」

と指摘しました。

九州大学の光成準治さんは輝元について、

「日本のみならず、東南アジアの貿易を掌握するという壮大な野望を抱いていた可能性」

を語りました。

関ヶ原の戦いに参加した武将で最多の書状を送ったのは徳川家康で、石田三成は13通。近田雄一さんは、

「敗軍の将である光成から書状を貰っていたことが露見するのを防ぐため、大名たちが廃棄していた可能性」

を挙げました。

1600年7月末の状況を整理すると、石田三成、毛利輝元は大坂、徳川家康は東北に向かっていました。

西軍からの宣戦布告

徳川家康に届けられた

「内府ちがいの条々」

は西軍からの宣戦布告と言えるもので、家康は西軍になびく大名を引き止めるべく、書状をしたためました。

内容をAIに読み込ませたところ、

「出馬」

「出陣」

「油断」

と言ったワードが多かったようです。

家康は心情に訴えることで大名たちを味方にしようとし、福島正則にはへりくだりながらも、一刻も早く敵を攻めていただきたいと促していました。

8月19日、腰を上げようとしない福島軍を使者を通じて侮辱すると、福島正則は出陣し、4日後には西軍の拠点である岐阜城を陥落させました。

9月1日、徳川家康も江戸を出陣しました。

石田三成が真田昌幸に送った書状の内容を河合敦さんがコンパクトにまとめ、佐藤二朗さんは、

「思いついたまま書き散らかした印象」

と語りました。

一方、徳川家康は伊達政宗への書状で感謝を示しつつ、シンプルにまとめられていました。

それぞれの思惑

徳川家康ら東軍に立ちはだかったのが毛利輝元が派遣した別働隊、吉川広家でした。

そんな吉川に東軍の黒田長政が密書を送っていて、

「戦いが始まってからでは寝返りは間に合わない」

と記していました。

西軍総大将の毛利輝元と言えば、多くの大名たちが関ヶ原に集結しているなか、領土拡大を狙って四国や九州に兵を差し向けていました。

逡巡する吉川へダメ押しとして、黒田は

「戦いに参加しなければ、毛利家の領地は保証する」

と書状を送りました。

結果、吉川は不戦の起請文、

「毛利勢は戦いに関わらない」

という密約を交わしました。

1600年9月15日、東軍が関ヶ原に姿を見せ、小早川秀秋は東軍になびきました。

1万5000の軍勢が西軍に襲いかかり、関ヶ原の戦いは1日で終結しました。

河合敦さんは、

「不戦の起請文が残されていることに驚き、また、関ヶ原の戦いが1日で終結したことで領土拡大を狙っていた毛利輝元の動向が露見し、領地は3分の1に減らされてしまった」

と説明しました。

吉川広家が徳川の家臣と交わしていた、

「戦いに参加しなければ、毛利の領地は保証する」

という密約は反故にされてしまいました。

時代は進み、毛利家は長州藩となり、倒幕を果たすことになります。

佐藤二朗さんは、

「来年が徳川家康を描いた大河ドラマということで、家康特集が多くなる」

と予想し、河合さん、近田アナは豪華ゲストの出演を佐藤さんに期待しました。

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