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新日本風土記で特集した空海をまとめてみた

今日の新日本風土記で特集した空海をまとめてみました。

空海の旅

神奈川県秦野市では、毎日100トンの水が湧き出します。

全国名水百選にも選出された清水となっています。

この土地が水に恵まれていなかった頃の夏の伝説がありました。

村娘が旅の僧のために遠くから水をくんできました。

感謝した僧が杖で地面を突くと清水が湧き出しました。

実はその僧は、弘法大師空海だったのです。

弘法大師空海

空海は、平安初期に日本の仏教界に革命を起こした真言宗開祖です。

四国に生まれ育った空海は、仏教を学ぶため31歳で唐に渡りました。

2年後、日本に持ち帰ったのは最先端の教えだった密教でした。

宇宙に存在するものすべては大日如来が姿を変えたもので、その秘密の教えを真に理解できれば、人はこの世にいながら仏になれると説きます。

仏の恵が現世に与えられると説く密教は、人々の心を捉えました。

空海が修行道場として開いたのが高野山で、その奥で今も生きているとされます。

永遠の修行を続ける空海は、やがてお大師さまとして信仰を集めていきます。

お遍路はお大師さまと同行二人で、長い旅をともに歩むありがたい存在です。

人々の心に残る空海、歴史と伝説と信仰が溶け合った大いなる旅路の始まりです。

お大師さまと暮らす町西新井

東京都足立区西新井駅から1kmの路線、東武大師線大師前駅は90年前に地元民も資金や土地を提供して開通しました。

この駅で乗り降りする年間500万人の多くは、お大師さまに願をかけるためです。

初詣に集中する客に備えて広いホームが作られました。

正月は出口が二箇所あり、門が開くのはまだ暗いうちです。

関東の高野山西新井大師

西新井大師は1200年近い歴史を持ち、関東の高野山とも呼ばれていました。

朝を待ちかねてお参りする人達の姿もあります。

正式な名前は五智山遍照院總持寺で、奈良の長谷寺や東京の護国寺とともに真言宗豊山派を代表する寺です。

井戸の清水

檀家の集まり門前会の代表を務める田口さんは、明治時代から門前で線香やだるまを扱う商売を営んできました。

空海は関東布教の途中、疫病に苦しむこの村に立ち寄りました。

十一面観音と自身の像を彫り、枯井戸に安置して護摩祈祷を行いました。

湧き出した井戸の清水のおかげで、疫病はたちどころにおさまったと伝えられています。

田口さんによれば、本堂の西側に新たしい井戸を作ったために西新井という地名がついたと言われています。

護摩祈祷

お堂で護摩祈祷が始まります。

護摩とは、お供え物のことを意味するサンスクリット語から来ています。

空海と最澄が中国から持ってきた密教独特の儀式です。

炎は大日如来の智慧の力であり、人の煩悩を焼き尽くし災いを祓います。

女性の厄除け

江戸時代西新井大師は、特に女性の厄除けで評判でした。

男達は泊りがけで川崎大師にでかけ、宿場町で精進落としを楽しみましたが、暮らしに忙しい女達は日帰りでここを訪れました。

門前町には、江戸の女達も食べたヨモギの草だんごの店があります。

いずれも創業200年を超える老舗です。

草だんごは、疫病に苦しむ人々にヨモギを処方して飲ませて祈祷したところ治ったという言い伝えがあります。

現在はコロナの影響で人が来ていないそうです。

お大師さまと暮らす町高野山

紀伊山地の中に浮かぶ宗教都市、和歌山県高野町は、東西6km、南北3kmすべてが寺の境内で、117の寺が密集していて、人口3000人の3分の1が僧侶です。

寺との付き合いが100年を超える商店も珍しくありません。

僧侶専門理髪店

明治時代に僧侶専門で開業した理髪店。

高野山では長さにルールはありませんが、修行を続けるうちに自然と短くなっていくそうです。

お客の近藤本淳さんは、

「憩いの場だ」

と話しました。

ごま豆腐の店

明治中頃から続くごま豆腐の店。

ごま豆腐は空海が中国から持ち帰ったと言われています。

ごま豆腐店の角濱さんは、

「修行するお坊さんの栄養面を支えてきた」

と話しました。

配達している寺は40以上です。

よろず屋

江戸時代から続くよろず屋さんでは、食材や雑貨、掃除道具など寺からの注文はなんでも引き受けています。

電話がない時代には御用聞きに回っていました。

川俣さんは、

「外国の観光客はバチカンのイメージで高野山を見ている」

とし、

「寺があって自分たちがある」

と話しました。

空海は今もいらっしゃる

高野山の中心に位置する金剛峯寺は、空海が816年に創建しました。

全国に3600ある高野山真言宗の寺の総本山です。

中国で類稀な才能を認められ、密教の正当な継承者となった空海は33歳で帰国後、高野山を開き、のちに朝廷から

「弘法大師」

の称号を与えられました。

空海は今も生きているとされています。

奥之院

最も神聖な場所

「奥之院」

で祈りが続けられていると信じられていて、空海の身の回りの世話をする14人の僧侶が暮らしています。

午前6時と10時半、食事が運ばれます。

御廟

御簾の奥の

「御廟」

地下で空海は今も瞑想を続けていると言われています。

御廟には維那と呼ばれる僧侶だけが年に1度、衣を替えるお世話のため入ることができます。

維那の加古原氏は、

「1200年受け継いできたことなので責任を感じる」

などと話しました。

空と海の道で

1番札所から220kmの23番札所を超えると太平洋が広がる高知県に入ります。

海岸線に沿う遍路道は4県で最も長い390kmに及びます。

御厨人窟

室戸岬の南端には、空海誕生にまつわる聖地があります。

御厨人窟と呼ばれる洞窟です。

若き日の空海がここで修行し、悟りを開いたと伝えられます。

目の前には空と海ばかりです。

空海の名はこの地で生まれました。

同行二人

海沿いの長い一本道に犬を連れたお遍路さんがいました。

高知の遍路道は札所の間が長く、最も離れた場所では90kmです。

3日間誰とも会わないこともあります。

空海の足跡を追った作家の高村薫さんは四国遍路について、

「先祖供養や病気平癒を祈願し、はたまた自分探しの旅をする善良なお遍路たちの気分を一言で言えば、高揚と多幸感であろう。そしてその高揚こそが、ときにお大師さんを出現させる当のものだと思う。四国霊場の随所におわす弘法大師は、真言密教を確立した僧空海ではない。千年に亘って聖たちが伝え歩いてきたいまも奥之院で生きている大師である。生きているので、遍路のさまざまな時と場所に姿を現す。文字通り、同行二人である。」

と記しています。

空海都を救う

高野山と共に空海が活動の中心としたのが京都です。

50歳の空海が天皇から賜った東寺。

この頃の京都では、災害や疫病が相次ぎ、天皇は空海が広める最先端の密教に都を救う力を求めました。

立体曼荼羅

空海が東寺の中に作り上げたものは、都の人々に衝撃を与えました。

立体曼荼羅でした。

これまで絵図にしか書かれたことのない仏の世界が21体の仏像によって目の前に出現したのです。

中央には密教の根本である高さ約3mの大日如来が坐しています。

仏の怒りの表情を初めて形にしたのは空海でした。

岩屋山志明院

都の水を守る仕事にも取り組んでいます。

鴨川源流の山中にある岩屋山志明院は、古くから水の神を祀ってきました。

この寺の再建も空海は任されます。

都で長く日照りが続いた折、空海は水の神である竜王を呼び寄せて、三日三晩雨を降らせ天皇の熱い信頼を得ていました。

30mほどの巨大な一枚岩のそのくぼみに山からの水が染み出る場所があります。

これが鴨川の最初の一滴です。

鴨川

都の真ん中を流れ下り、天皇から下々まで暮らしを潤した鴨川。

しかし、度々氾濫して疫病流行の素になる暴れ川でもあります。

空海は四国で巨大なため池の改修工事を指揮した経験があり、水利や土木の技術にも通じていました。

水の神の社を守る

その空海が再建した水の神の社を守る田中真澄さんは、月に一度、源流の水を汲み恵みに感謝します。

空海自ら作ったという本尊のお不動様に捧げます。

田中さんは、

「上から下へ川が流れる以上は上が大事なんで上にはそういう神様とか森の神様・水の神様が宿っていて守ってくださるとそこに人間がいかに生かされているかということも考えて聖域な場所として大事にしなきゃいけないということでしょうね」

と話しました。

峠を越えた向こうに

難所の三坂峠に差し掛かり、険しい道を下って松山に入ったお遍路さんをもてなす接待所があります。

二人暮しの夫婦がこの接待所を切り盛りしています。

お遍路さんに振る舞うご飯の準備をしていました。

子どもたちが村を離れ、平成26年に2人はお接待を始めました。

男性は、祖父が門付けをするお遍路さんに米のお布施を渡す姿を覚えているそうです。

夫婦は近所の仲間と週に一度、木曜日に接待所を開いています。

春先に多かった歩き遍路も暑くなると少なくなりました。

この日は午前11時過ぎにお遍路さんが訪れ、松山鮓でもてなしました。

お遍路さんは、

「色々なところで接待を受け、気持ちが変わってきた」

と話します。

願い眠る地

1200kmの遍路道を辿って最後の札所に至ります。

八十八番札所の大窪寺。

胸に抱えてきた願いをここまで届けると結願となります。

やり遂げたという思いは、これからを生きる上での拠り所となります。

亡くなった友人と交わした20年前の約束を果たした女性は笑顔を見せました。

裏には江戸時代にこの地で命を落としたお遍路さんが眠っています。

その墓を、今も地域の人が守り続けています。

中には結願を果たせず亡くなり、ここまで運ばれ葬られた人もいるそうです。

墓前にはお大師様が修行に使ったとされる樒が供えられます。

青葉祭り

東京の西新井大師で稚児姿のお大師様が小さなお堂におさめられたのは、誕生日と言われる6月15日の青葉祭りの日です。

祈りを新たにする日です。

かつて空海は疫病のさなかで苦しむこの土地に身を寄せたそうです。

それから1200年。

コロナ禍の中でも、お大師様は人々に寄り添いすぐそこで見守っています。

Twitterでの新日本風土記で特集した空海への反応

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