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林修のニッポンドリルは山手線を特集していた

昨日の林修のニッポンドリルは、学者と巡るJR山手線でした。

戦前から令和まで奇跡の150年物語

品川駅

山手線研究歴20年の小林祐一さんと東京を巡り、山手線がどのように誕生したのかを明らかにしました。

最初にできたのは品川駅で1872年、東海道線の駅として誕生しました。

新橋と横浜をつなぐのが日本初の鉄道路線ですが、品川駅はその半年前に営業を開始していました。

品川駅の住所は港区となっています。

輸送の利便性を図るため駅の計画が立てられましたが、当時は蒸気機関車だったため地元住民から反対されました。

そこで大隈重信は海の上を走らせることを発案しました。

当時の浮世絵でも海の上を走る蒸気機関車が描かれていました。

結果的に品川駅は、品川の中心地から離れましたが品川という駅名は譲れませんでした。

その後港区に区分けされ、品川駅なのに港区という状況が生まれました。

上野駅

1883年に上野駅が開業しました。

上野駅ができたのはたまたまで、本来は中山道の起点である日本橋に作りたかったそうです。

ただ上野と日本橋の間は、人口密集地帯で用地買収が難しく、できることから手を付けていったら上野駅ができました。

寛永寺の焼跡を有効活用するために1877年に博覧会が行われ、日本で初めて電車が運転されました。

大成功の博覧会がきっかけになり博物館や美術館がオープンし、芸術の街となりました。

上野駅に残されたレリーフには、蒸気機関車の横に集団就職で東京に出てきた学生の姿が描かれていました。

東北方面からの終着駅が上野駅でした。

あゝ上野駅は、集団就職を歌った曲です。

レリーフには、18の番号が刻まれていました。

上野駅には18番ホームがなく、17番ホームからは18番ホームの跡が確認できました。

18番ホームは、集団就職列車が到着していたホームで、その後修学旅行専用列車などに使われてきましたが、上野駅に新幹線が開通し、1999年に18番ホームは廃止されました。

現在18番ホームは、駅員専用の通路として使用されています。

渋谷駅

渋谷駅は、1885年の開業当時は田畑に混まれた閑散とした地域で、駅の利用客は1日16人ほどでした。

野菜を運ぶために鉄道と大山街道の交差点である渋谷に駅が作られました。

銀座線の渋谷駅は、地上3階にあります。

渋谷は青山に比べ谷で標高が低いためでした。

渋谷ヒカリエなどの商業施設を所有している東急グループの実質的創業者の五島慶太が1922年に現在の東急を設立すると東横線が開通しました。

渋谷駅はターミナル駅へと進化を遂げ、1934年に東横百貨店を開業しました。

さらに渋谷に人を呼び込むため、ラッシュタイムに空いている逆方向の電車を活用すべく、無償で土地を提供して学校を誘致しました。

学生が郊外へ出るために電車を利用することになり、渋谷には人が行き交うようになりました。

その後

「渋谷パルコ」

「SHIBUYA109」

ができ若者文化の中心地となりました。

新宿駅

新宿歴史博物館元館長の橋本さんと新宿駅の歴史を紹介しました。

新宿駅は乗降客数世界一で、ギネス世界記録にも認定されています。

昭和40年頃の新宿駅では、人が押し寄せ入場規制がかかることもありました。

車内に人を押し込む押し屋もいました。

新宿駅は開業当時は誰も利用しない貨物中心の駅でした。

昔、内藤新宿という宿場町があったのが現在の新宿一丁目から三丁目付近で、新宿駅のあたりは何もありませんでした。

1923年に起きた関東大震災をきっかけに駅の利用者が増加しました。

被災地から東京の西側に移り住む人が増え、新宿駅は郊外と都心を結ぶ拠点となりました。

1964年に4代目駅舎へと建て変わると、構内に商業施設ができ、現在のような駅ビルとなりました。

デパートの開店ラッシュが起き、百貨店街になりました。

1933年に伊勢丹新宿がオープンします。

かつては伊勢丹の中にアイススケート場がありました。

1970年には、新宿通りで歩行者天国がスタートしました。

1960年後半若者がフォークソングを歌い反戦を呼びかける

「フォークゲリラ」

が起き、新宿駅西口広場は人で埋め尽くされました。

機動隊と衝突し、逮捕者や負傷者を出す事件となりました。

現在西口の高層ビルのある場所は、昭和40年頃は巨大な浄水場がある場所でした。

高度経済成長期にオフィス需要が伸び、浄水場を移転してビルの建設地となりました。

浄水場のつくりをそのまま利用したため、周りの土地よりも低いという構造になりました。

秋葉原駅

1885年に目白駅、目黒駅が開業しました。

上野駅は当時、貨物と旅客がひしめく駅でキャパオーバーとなったため、上野駅を旅客専用の駅として、1890年に新たな貨物駅として秋葉原駅を開業させました。

秋葉原には、1928年に青果市場が誕生しました。

当時、秋葉原は陸路の輸送、船での輸送といった物流の拠点でした。

第二次世界大戦で電機メーカーの工場が被害を受けたことで、当時、家族が聞く唯一の娯楽だったラジオの完成品を発売することができにくくなりました。

そこで秋葉原に多く流通していたラジオ部品を人々が買い求めるようになり、秋葉原は電気街へと成長しました。

1890年に秋葉原駅が開業し、さらに1896年に田端駅が開業しました。

常磐線がつながると石炭を横浜に運ぶためのショートカット路線が開通しました。

1909年に品川線と豊島線が合併して山手線になりました。

新橋駅

1909年に新橋駅が開業しました。

1872年に東海道線の駅として開業しましたが、その後移転しました。

現在の場所から200メートルほど離れた場所にありましたが、山手線の駅として利用すると手狭になるため新しく開業することになりました。

1909年に山手線が蒸気機関車から電車になりました。

戦後復興の時期、新橋駅前に闇市ができました。

駅前再開発で一掃されましたが、入れ替わりで入ったニュー新橋ビルで、安くて美味しい店ができ、新橋はサラリーマンの街となりました。

また新橋駅前ビルには、たぬきの銅像があります。

山手線の工事現場にたぬきが迷い込み、作業員が小屋を建ててえさをあげていました。

その後たぬきはいなくなり、小屋では作業員が酒盛りをするようになりました。

たぬき小屋から始まって、その後狸小路という飲み屋街ができたそうです。

東京駅

環状路線が完成し、増えた利用客をさばくためのターミナル駅として東京駅が1914年に開業しました。

東京駅周辺のビルは、低層と高層のデザインが変わっていました。

かつて丸の内では、ビルの高さは31メートルに規制されていました。

1963年に高さ規制が撤廃されると、元々の建物の上に高層ビルが建設されました。

東京駅の駅舎デザインを最初に考えたのはドイツ人技師のフランツ・バルツァーで、伝統的な和風建築でした。

しかし、このデザインを見た鉄道関係者は、西洋的なものを取り入れたいと、バルツァーの帰国後駅舎デザインを変更しました。

新たな設計者に選ばれた辰野金吾の案は、政府関係者に大好評でした。

地盤の弱いこの場所に当時としては異例の3階建て駅舎が建てられようとしていました。

地盤沈下の可能性もあったため、丸太を縦にたくさん埋めました。

1923年の関東大震災でもびくともしませんでした。

最大の壁だった新橋~上野間

山手線は、新橋~上野の空白地帯が最大の難関でした。

日本橋・銀座エリアは繁華街で、線路を通す場所がありませんでした。

鉄道局の原口要と仙石貢は、当時の状況を憂いていました。

1884年当時、上野まで列車で運んだ荷物を押し車などに積んで新橋へ、そして再び列車に積み横浜に運んでいました。

2人は、新橋~上野間の開業を目指し、何度も審議委員会に臨みましたが、資金不足と住民反対で日本鉄道界の父・井上勝でさえ計画を断念したことを知りました。

原口は、新橋~上野に鉄道を通すため、高い位置に線路を通す高架線を提案しました。

当時日本では誰も知りませんでしたが、原口はアメリカに留学したときに、鉄道工事に参加し、その路線が高架鉄道でした。

こうして新橋~上野間の路線計画が動き出しました。

秘密施設に潜入 未来の改札&ロボ

埼玉県にあるJR東日本研究開発センターを紹介しました。

施設の中には、本物の電車や案内表示までありました。

2階には、最新の改札機がありました。

タッチレスゲート

2階には開発しているタッチレスゲートがありました。

専用の端末を持つとタッチレスで通れます。

在来線混雑可視化システム

在来線混雑可視化システムは、2017年に運行管理を行う司令室に導入され、混雑状況に合わせて列車間隔を調整しています。

Station Service Robot

開発中のロボット、Station Service Robotは自立して動き、客の案内や清掃などをします。

高輪ゲートウェイ駅で実証試験を実施しました。

山手線誕生

環状線もゴール目前となりました。

残る上野~東京間も震災の被害を受けたものの国をあげた巻き返しで工期の遅れを取り戻し、ついに高架線が完成しました。

1925年11月1日に山手線が誕生しました。

山手線環状運転開始から約100年 高架線 東京駅 その壊れない秘密

山手線環状運転開始からまもなく100年となります。

今も100年前の高架線が山手線を支えています。

鉄道総合技術研究所の小野田さんに、高架線が100年耐え続けている秘密を明かしてもらいました。

高架線のレンガの透かし模様は、デザインだけでなく地盤沈下が起きないよう中が空洞になっていました。

際の黒いレンガは焦がしていて強度が高くなっています。

東京駅外側のレンガは、同じ大きさのレンガを重ねた小口積みになっていて、東京ステーションギャラリーでみられる外壁を剥がした内側のレンガは長さの異なるレンガを重ねて強度を生み出すイギリス積みになっていました。

Twitterでの林修のニッポンドリルで特集した山手線への反応

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