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ブラタモリでやってたのは静岡だった

ブラタモリで静岡を特集していました。

家康が愛した駿府ってどんな所?

タモリさんがいるのは静岡市の駿府城公園でした。

タモリさんは、

「静岡駅で降りたことがない、静岡市は家康以外ピンとこない」

と話しました。

駿府は、静岡の昔の都市の名前で、駿河の国府を略して駿府と言います。

今回は、家康が愛した駿府ってどんな所?と言うテーマでした。

家康が駿府にいた時期は大きく3つです。

今川家の人質となっていた少年時代、秀吉の家臣として5つの国の大名だった現役時代、息子に将軍職を譲り大御所となった晩年です。

合計するとおよそ25年、人生で最も長い時間を過ごした場所が駿府でした。

家康が築いた駿府の城下町には10万人もの人がいました。

駿府城公園

駿府城公園の一角には発掘現場があります。

家康が晩年に築いた日本一広い天守台が見つかりました。

さらに見つかった石垣は、家康が40代後半に築いた城の天守台で、専門家も予想しなかった大発見でした。

つまり家康は、同じ場所に新たに城を大きく作り直していたことがわかりました。

家康の時代より前の今川の時代に使われていた金箔を貼ったかわらけが見つかったことで、駿府城の辺りに今川家の屋敷があったことがわかりました。

さらに古代の国府もこの辺りにあり、政治の中心が1000年以上も置かれていたすごい場所でした。

海や川から遠く山からも離れた中途半端な場所に、なぜ政治の中心が置かれたのでしょうか?

水の流れを追って高低差を見ると、賤機山の東側で180度逆の方向に流れていました。

実は、城のある高い場所が出来た理由は、西を流れる安倍川にあります。

安倍川が運んだ土砂が堆積すると東側の低い土地に流れたときがありました。

その流れが運んだ土砂によって、賤機山の東側に小高い場所ができました。

安倍川が氾濫してもギリギリかわせる所に城はあります。

こうして平地の中でも少し高く、水害に強いこの場所が政治の中心になりました。

城下町

タモリさんは家康が作った巨大な城下町を歩きました。

碁盤の目になっている場所には、江戸時代に町人が暮らしていました。

駿府には京都の伏見や遠江国、甲斐国から多くの人を集めていました。

移り住んでもらうために家康は今で言う固定資産税を一代だけでなく子孫までずっとタダにしました。

城下町の西側に家康が特別な城下町として作った痕跡があります。

金座という地名にあるのは、日銀の静岡支店です。

金座稲荷神社にあったのは、後藤庄三郎の屋敷で金貨の鋳造所でした。

江戸ではなく駿府に金座があったことこそ駿府が特別であったことの証です。

駿府には銀座もありました。

まだ江戸が本当に首都になるのか、先が見えていなくて、ここが首都になる可能性もあったのかもしれません。

家康は駿府に来た9年後に亡くなってしまいます。

その後大きな変化が訪れます。

江戸後期には、武士の多くは江戸に移ってしまいますが、武家地はキープされていました。

徳川の町として200年あまりキープし、最後にやってきたのが徳川慶喜です。

大政奉還で江戸にはいられなくなった最後の将軍が来る場所にはピッタリでした。

慶喜の屋敷は、現在料亭になっています。

慶喜は広大な庭と池を作って、今も同じ位置に橋がかけられています。

慶喜は駿府で政治的な関心を遠ざけるように趣味に没頭していました。

近代都市としての静岡

再び町のメインストリートで、静岡が近代都市として発展する際に生まれたユニークな工夫を探りました。

この建物は4階建てのビルが連なった不思議な造りになっています。

ビルを上ると3階までしかなく、4階は単なる壁です。

この昭和32年につくられた通称、防火ビルで、メインストリートに火事が起きても火が広がらないよう防火壁とビルを兼ねたコンクリートの建物を静岡駅から昔の城下町までつなげています。

家康が築いた城下町と近代の鉄道駅が新たに一体となって町づくりがすすめられました。

静岡の人は今でも城下町に行くことを

「お町に行く」

と言います。

家康が愛した駿府の町を受け継ぎながら発展を遂げた静岡の町です。

ここには今も家康が生き続けています。

旅の終わりにタモリさんは冒頭でなんにもないと言ったことを謝り、

「地形的に見ても面白いね。平野の中でも一番高い所にあった。普通に歩いていてもわかんないね」

と話しました。

Twitterでのブラタモリでやってたのは静岡への反応

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