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ブラタモリは札幌を特集していた

昨日のブラタモリは、札幌を特集していました。

旅のスタートは大通公園でした。

タモリさんは、

「35年前に来たことがある」

と語りました。

テレビ塔に上がり、景色を眺めました。

今回は

「なぜ札幌は200万都市になった?」

でした。

札幌の開拓が始まる直前、明治元年の地図を見ると、豊平川のほとりに2軒の家が描かれていました。

アイヌ以外の日本人は、7人だったと言われています。

札幌開拓の鍵に迫る

タモリさんたちは、まず、札幌の中心部へ向かいました。

北海道庁旧本庁舎を訪れました。

ここに開拓の拠点を置いた理由を紹介しました。

綺麗な碁盤の目になっているはずの札幌、一本の道だけが少しカーブしていました。

北海道庁の裏側、当時、ここには池や川があったためにそれを避けたことからカーブしたそうです。

この川を辿って行くと、札幌を開拓の拠点に置いた理由がわかるそうです。

市内には湧き出し口が13か所もありました。

札幌の地形は扇状地で、しかもかなりなだらかでした。

そのため、開拓の拠点としていい場所だったそうです。

青は低地で、ピンクは泥炭地、住みやすいのは真ん中部分だけだったため、外側をどうしていくかが問題でした。

川の跡を追って扇状地と低湿地の堺へ

扇状地と低湿地の堺へ向かうタモリさんたちです。

川の跡をたどって行ってついたのは、へこみ全体が池だった場所です。

この池をいかして、明治に偕楽園が作られました。

さらにたどっていくと、北海道大学へ入りました。

そこでは川の流れを再現していました。

さらにクラーク博士の像の視線の先、そこが低湿地と扇状地の堺です。

200万都市になるため低湿地をどう開拓したのか

北海道大学内の低湿地だった場所へ向かいました。

そこは今農場になっています。

低湿地を農場に開拓出来たからこそ、200万都市になれたそうです。

土管を農地に埋め込み、排水する技術が広まって、低湿地を農地として使えるようになりました。

さらに治水のために明治20年に作られた新川があります。

札幌にはこのように、排水のために作られた川がたくさんあります。

札幌中心部に200万都市の秘密が

札幌の中心部、老舗のお菓子屋を訪れたタモリたちです。

店内では地下90mの水、伏流水を飲むことが出来ます。

お菓子にもこの伏流水を使っています。

夜の街すすきのに発展の痕跡

札幌が発展した理由を探るため、すすきのへ向かいました。

するとすすきのの入口で、道路が100mほどいくと曲がっていることに気づきました。

当時、ここには土塁があったそうです。

これは明治4年につくられた薄野遊郭の名残です。

開拓が始まったのが明治2年のため、原野からわずか2年で遊郭が作られたそうです。

開拓初期、役人らが訪れても男ばかりで冬になると帰ってしまうため、北海道に留めるために開拓使が遊郭を作ったそうです。

明治8年には、遊郭の周りに町が出来ていました。

道が碁盤の目じゃない

札幌の大きな寺の前のT字路。

ここからは、最初に見たマンションが見えました。

碁盤の目になっていないところが、発展の秘密だそうです。

路面電車の通っている道につくと、また道路が曲がっていました。

ここは、開拓使がつくった札幌中心部の町の際、さらに別で作られていた山鼻村があり、別々に作られたが故に碁盤の目が曲がってしまったそうです。

周辺の開拓地が発展し巨大な札幌へ

札幌の開拓が行われていた当時、たくさんの町が同時多発的に開拓されていました。

札幌市の範囲で20近くの農村がありました。

戦後、炭鉱が次々と閉山し、働き口を求めた人が札幌に訪れ、住宅地が拡大しました。

やがて町と町がつながり、巨大な札幌市になりました。

札幌の始まりの地豊平川

タモリさんたちは、札幌の始まりの地、豊平川を訪れました。

そこには、200万都市の記録に残るスタート、2家族の石碑がありました。

Twitterでのブラタモリで特集した札幌への反応

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