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昨日のアナザーストーリーズは北斗の拳の特集だった

昨日のアナザーストーリーズは、北斗の拳闘を特集していました。

北斗の拳に人生をささげた男

今回のアナザーストーリーズ運命の分岐点は、1983年9月13日でした。

最初の視点は、当時無名の漫画家であった原哲夫さんからでした。

1970年代の終わり、高校生だった原哲夫さんは、暗い作風の劇画を執筆しては出版社に持ち込んでいました。

赤塚不二夫に憧れて漫画家を志した原哲夫さんは、少年ジャンプ編集部を訪れ、若手編集者の堀江信彦さんと出会います。

原哲夫さんの漫画を目にした堀江信彦さんは、原哲夫さんにアシスタントの仕事を紹介するなど目をかけ、堀江信彦さんの指導の下で原哲夫さんは、何本かの読み切り漫画を執筆しました。

そのうちの1本は、賞も獲得しました。

そんな原哲夫さんが当時、憧れていた映画スターがブルース・リーと松田優作でした。

原哲夫さんは、2人をイメージした中国拳法を題材にした漫画を描くことを思いつきましたが、堀江信彦さんは逆に当時流行していたモトクロスを題材にした漫画を描くように勧めます。

描きたいものを描く

こうして生まれたのが初の連載作品、鉄のドンキホーテでした。

しかし、連載はわずか10回で打ち切りとなってしまいます。

この苦い経験から原哲夫さんは

「描きたいものを描く」

と決意し、中国拳法の漫画を描くことを決めました。

北斗の拳誕生

1983年4月、原哲夫さんと堀江信彦さんが生み出した新作、北斗の拳は月刊誌に読み切りとして掲載されます。

現代の高校生である霞拳四郎が北斗神拳を武器に闘うという内容で、読者の人気投票で見事1位を獲得しました。

そして、1983年9月13日に北斗の拳は少年ジャンプでの連載が始まりました。

連載にあたっては、原作者を別に立て、原哲夫さんは画作りに集中することが決まりました。

作品の内容も読み切りから大幅に変更され、崩壊した近未来でケンシロウが闘うという筋書きは大人気を博しました。

過酷を極めた連載

しかし、その一方で週刊誌への連載は過酷を極めたそうです。

原哲夫さんの性格を見抜いていた堀江信彦さんは、北斗の拳の絶大な人気をあえて本人には伝えないなど厳しく接する一方で、画作りに自ら協力するなどのサポートを欠かしませんでした。

こうして週刊少年ジャンプが部数を伸ばしていく中、原哲夫さんはかつての自分のような子どもたちに向けて漫画を書き続けました。

嘘の天才の苦闘

第2の視点は、原作者・武論尊からでした。

武論尊さんは元々、北斗の拳連載にあたって堀江信彦さんが用意していた原作者候補の1人で、原作執筆にあたり

「現代劇にはしないこと」

を条件にオファーを受けました。

「拳法の強さを描くには近代兵器がない方が良い」

と考えた武論尊さんは、映画マッドマックス2から着想を得た近未来を舞台にすると決めました。

漫画原作者と言う仕事

そんな武論尊さんは、かつて航空自衛隊に勤務していて、同じく自衛隊に勤務していた本宮ひろ志さんと友情を深めていました。

除隊後は、漫画家として活躍していた本宮ひろ志さ宮の元に転がり込んだものの、絵を描けなかった武論尊さんはアシスタントの仕事をこなせず、代わりに漫画原作者の職にありつきました。

ここで武論尊さんは、才能を発揮し、28歳で担当したドーベルマン刑事は大ヒットとなりました。

北斗の拳の原作依頼が舞い込んだのは、ちょうど次のステップを模索していた時期でした。

北斗の拳渾身の第2話

北斗の拳の連載後、原哲夫さんの作画に衝撃を受けたという武論尊さん。

素晴らしい作画に負けない物語を作り上げるべく武論尊さんは、必死に作品を作り上げ、渾身の第2話は編集者の間でも話題となりました。

この第2話は、堀江信彦さんの指示で武論尊さんが書き直した結果出来上がったものだそうです。

その後、武論尊さんは、持ち前の能力を発揮しケンシロウの兄であるジャギやトキ、ラオウといったキャラクターを生み出していきます。

我が生涯に一片の悔い無し

北斗の拳の連載開始前、大虐殺が行われたカンボジアを旅していた経歴を持つ武論尊さんは、作中のセリフにこうして培われた人生観を反映していきました。

中でも

「我が生涯に一片の悔い無し」

は、武論尊さん自身の連載に対する思いでもあったそうです。

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