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ブラタモリでやってた島原・天草のキリシタン

ブラタモリで島原・天草のキリシタンは、なぜキリシタンは250年も潜伏できたのかを特集していました。

熊本の崎津集落

タモリさんたちが、熊本県天草市崎津に登場しました。

林田アナウンサーは、これが最後だそうです。

2018年に世界文化遺産に、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産として登録されました。

江戸時代、キリスト教は厳しい取り締まりにあいました。

その様子は、2017年に公開された映画、沈黙 -サイレンス-でも描かれました。

タモリさんは、南蛮柿と書いていちじくと読むのを発見しました。

熊本大学の安高啓明さんが登場しました。

1549年にキリスト教が伝来しました。

天草には、1566年に伝わりました。

昭和9年に建てられたカトリック教会の前には、当時の楽器を復元して演奏活動を行うコレジヨの仲間の皆さんがいました。

当時の崎津には、様々な西洋楽器がもたらされ盛んに演奏されていました。

林田アナウンサーが、イタリアン・ヴァージナルを弾いてみました。

秀吉が3回アンコールしたという曲、Mille Rigrets ー千々の悲しみーを聴かせてもらいました。

なぜキリシタンは250年も潜伏できたのか?

実は、教会があるこの場所が謎を解く上で重要なのだそうです。

江戸時代の地図を見ると、庄屋でした。

庄屋は、キリスト教の取締りをやりました。

踏絵は板踏絵だそうです。

真鍮踏絵

多くの人が踏むと板が壊れてしまうため1669年からは、真鍮踏絵が使われるようになりました。

真鍮踏絵になってから、あまり心苦しく踏んでいなかったと言われています。

板踏絵にある装飾は、ロザリオをかたどったもので、この絵はロザリオの聖母と呼ばれ装飾は不可欠な要素でした。

ところが真鍮踏絵には、装飾がありません。

実は幕府から製作を依頼された人物が、仏教徒だったため、その重要性に気付けなかったと考えられています。

潜伏キリシタン

宮下剛さんは、代々潜伏キリシタンだったそうです。

宮下さんは44歳になりますが、初めて知ったのが42歳のときだったそうです。

世界遺産に登録されたときに父が載った地方紙を読んで知ったそうです。

店内に潜伏キリシタンの箱が置いてありました。

中には8枚の寛永通宝が入っていました。

崎津独自の信仰具

十字架状に並べて信仰の道具に使われたそうです。

崎津で独自に生まれた信仰具はアワビの貝殻でした。

模様が天使やマリアに見えるからだそうです。

一年中しめ縄を飾っておく風習

崎津では、一年中しめ縄を飾っておく風習があります。

しめ縄をやっていれば神道を祀っていてキリスト教ではないという印になるそうです。

潜伏キリシタンの中心人物が寺社の要職を担う場合もあったそうです。

崎津には、宗教の違いにこだわらないという独特の風土がありました。

当時の人口は2300人ほどで、村の維持には全員の協力が必要だったからだそうです。

崎津ならではの風景

崎津ならではの風景を見られる場所へ行きました。

神社の石段の上から見ると目の前に鳥居と教会が見えます。

こうした風土も、キリシタンが潜伏できた理由のひとつだそうです。

当時の幕府は、寺請制度でキリシタンではないと判断したそうです。

キリシタンに大事件の衝撃の結末

1805年の天草崩れ。

密告によって村人の7割もがキリシタンだと発覚してしまいました。

当時の法律に従えば処刑は免れなかったのですが全員無事でした。

当時の記録には

「宗門心得違」

と書かれキリシタンではなく変わった信仰を持った人たちとされました。

取り締まる側にキリシタンと認めるわけにはいかない事情があったようです。

踏み絵や寺請制度をやっているのにキリシタンと認めたら、これまでの政策が無意味だと認めてしまうことになるからです。

これらの様々な要因が絡みあいキリシタンは潜伏を続けることができました。

キリシタン潜伏の謎

タモリさんは、船で長崎県の島原半島へ行きました。

島原天草一揆が起こったのは1637年です。

厳しい取締りに反発したキリシタンや農民など総勢3万7千人が蜂起しました。

このときの一揆軍の強さに幕府側が脅威を感じたことも、その後の天草崩れでキリシタンを処刑しなかった理由のひとつと考えられています。

原城で一揆軍の強さのヒミツを探る

タモリさんは、島原天草一揆で最大の激戦地となった原城へ向かいました。

奈良大学の千田嘉博さんが登場しました。

地形図と絵図を見比べてみました。タモリさんがいるあたりは丘全体が原城で一揆軍3万7千人が立てこもりました。

一方幕府軍の12万5千人は、正面の丘陵地帯に布陣を敷きました。

一揆軍の強さの秘密は、本丸でわかります。

2つの立派な門と石垣や建物で囲まれ枡形と呼ばれ、侵入してきた敵に対し周りから攻撃を浴びせる仕掛けです。

本丸の正面は、いくつもの枡形によって守られ、まさに鉄壁です。

一揆のときも最後まで突破されることはなかったそうです。

原城の側面の守りを見る

城の側面は、全体で30mぐらいの高さです。

鉄壁の原城に籠城した一揆軍の強さは、幕府軍の総大将を討ち取るほどでした。

激しい戦いは、なんと3か月にも及びました。

原城では、井戸が見つかっていません。

城内に水が湧いてくる池がありました。

本丸のすぐ脇にある蓮池のおかげで、飲み水に困らず戦い続けることができました。

池の近くには海がありました。

原城の地質が、大きく関係しています。

一揆軍を支えた池ができた理由を探る

この先の崖を見ると大きな池が出来た理由がわかります。

島原半島ジオパーク協議会の大野希一さんが登場しました。

原城の地質は、上下で異なっています。

下の泥岩層は、水を通しにくいため地中に染み込んだ水が地層の隙間から湧き出し池が出きました。

上には、火砕流堆積物がありました。

阿蘇山の4番目のAso-4火砕流堆積物です。

Aso-4のおかげで驚異的な強さを発揮した一揆軍は、さらにもうひとつの強さの秘密が見つかっています。

一揆軍の強さのさらなる理由に迫る

本丸に戻って、小さな十字架を見せてもらいました。

これは一揆軍が戦いの最中に作っていたと考えられています。

材料には、幕府軍から撃ち込まれた鉄砲の玉が使われていました。

全員が戦死した凄惨な結末でした。

その後もキリスト教を厳しく処断するのが難しく

「宗門心得違」

という奇策が出ました。

最後に林田アナウンサーは

「この2年間の思い出を抱きしめてたぶん一生生きていきます。ありがとうございます」

と話しました。

Twitterでのブラタモリでやってた島原・天草のキリシタンへの反応

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