植松聖被告に、死刑判決が出ました。
これは、至極当然、当たり前の判決ではないでしようか。
植松聖被告は、相模原市緑区の知的障害者入所施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件で、45人もの殺傷者を出し、未成年者を含む19人もの命を奪っています。
これが死刑にならなければ、いったい日本の法制度はどうなっているのかと言われかねません。
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最高裁が判示する死刑選択が許される場合とは?
最高裁は、死刑選択が許される場合について以下のように判示しています。
- 犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合。
植松聖被告が犯した相模原市緑区の知的障害者入所施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件は、被害者の数、手段の残虐性、動機の自己中心性、改悛の情がないことなどから、例えば、犯人の年齢や麻薬による精神障害の影響を考慮しえるとしても、この基準に、確実に当てはまると言えます。
誰が、どう見ても植松聖被告への死刑判決は妥当な判決と言えるんですね。
ところが、その妥当な判決に異を唱える声があるということに驚きをかくせないアラ還おやじです。
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植松聖被告への死刑判決は不当判決と異を唱える声
植松聖被告への死刑判決は、不当判決で間違っているのではないかという意見を唱える声があるということにびっくりしているアラ還おやじです。
その意見を唱えている人は、植松聖被告には、明らかに情状酌量の余地はあるとまで言っています。
いやぁ、この人は、いったい何を言っているのでしょう???
植松聖被告を崇拝してでもいるのでしょうか?
だとしたら、とても怖いことと感じるアラ還おやじです。
植松聖被告は、自ら犯した相模原市緑区の知的障害者入所施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件で、45人もの殺傷者を出している殺人鬼です。
植松聖被告を擁護する声をあげている人は、植松聖被告が無罪とは言わないし植松聖被告の犯罪を全面的に擁護するつもりはないと言ってはいるものの、考え方として植松聖被告に近い感じを受けました。
なぜなら、植松聖被告の主張を、納得できる部分もかなり多く、一理あるところもあると言っているのです。
そして、その根底にあるのが、政府が、意思疎通のできない生涯寝たきりの成年の重度障害者に対して安楽死制度を設けていないことで、植松聖被告は、相模原市緑区の知的障害者入所施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件を犯したとまで。
これって、植松聖被告の主張そのものではないでしょうか。
未成年者を含む19人の命を、残虐な手口で奪った植松聖被告。
死刑判決は、至極当然、当たり前の判決であると、多くの人は感じたはずです。
それに対して、情状酌量の余地もあるという植松聖被告を擁護する声をあげ、植松聖被告と同じ考えを示す。
確かに、日本は言論の自由が認められている国です。
それであっても、この擁護の声に、言いようのない怖さ、恐怖を感じているアラ還おやじです。
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植松聖被告を擁護する人が主張する安楽死
擁護の声をあげている人が主張する、安楽死制度が存在していたならこの事件は避けられたという考え。
確かに、海外には、法的に安楽死の選択を認めている国もあります。
しかし、日本では認められていません。
安楽死制度というのは、本人の自発的意思を尊重するというのが基本にあります。
そして、基本的には、医師や心理学者等の総合的判断で延命治療を中止するという、ある種の医療行為なのです。
ただし、障害などで、意思確認が困難な場合には、本人の近親者などの希望を受けて同じく医師らとの相談の上行われます。
考えてみてください。
植松聖被告は、障害者施設の一職員なだけです。
近親者でもありません。
つまりは、判断をする立場でも、実行する立場でもないのです。
近親者でもなく、一介の障害者施設職員が代行して、安楽死のために自己判断で病院へ送るという権限もありません。
ましてや、日本には安楽死制度は存在しないのです。
最初から、安楽死制度の有無が事件が起こらなかったと断定すること事態があり得ないわけです。
これを踏まえても、植松聖被告に対して情状酌量を勘案する相当事由には当たらないわけです。
刑罰における情状酌量
刑罰における情状酌量は、本来事件の残虐性・計画性・社会的影響に照らして、被告人の罪の意識や反省、更生の余地が明白なときに、初めて考えられるものです。
だからと言って、必ず情状酌量されるものではありません。
植松聖被告は、明らかに殺人を実行する意思を持っていました。
そして、それを社会的正義であると自分勝手な主張しています。
その植松聖被告の言動は、日本の現行法を守るという意思を持っていません。
当然、情状酌量の余地なしと判断されますから、死刑判決は、当然の判決と言えるのです。
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