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プロフェッショナル仕事の流儀でYOSHIKIを特集してた

プロフェッショナル仕事の流儀でYOSHIKIさんを特集していました。

YOSHIKIスペシャル

取材交渉から1年、YOSHIKIさんはアメリカでショーに出演しました。

YOSHIKIさんは、海外だとホテルの中にもピアノを持ち込んでいます。

23年前に当時の天皇陛下のために作曲したAnniversaryを演奏している様子を紹介しました。

「完璧な演奏ができて当然、それ以上のものをお客様に表現しなきゃいけない」

などと話しました。

YOSHIKIさんがX JAPANを率いてデビューしたのは1985年です。

圧倒的な演奏と破滅的な演出で時代の顔となりました。

作詞作曲の大半を担ったのはYOSHIKIさんで、世界に最も近いロックバンドとも言われました。

孤独と心の叫び

YOSHIKIさんは、

「たぶん僕の心っていう心の叫びとか心の言葉っていうのは全部音楽で発している」

などと話しました。

常に人に囲まれながらも時折見せるYOSHIKIさんの表情には、孤独の色が見えました。

デビューから37年、激しい演奏スタイルがたたり頸椎を2度手術し、腕にも爆弾を抱えています。

医師からは引退を勧められていますが、ステージに立ち続けるための努力をYOSHIKIさんは1日も欠かしたことはありません。

また、他界したメンバーのことを思うといまだに涙が止まらなくなってしまうそうです。

「どう人に見られるかと考えるよりも、素で生きるべきなんじゃないかなと考えるようになった」

と話しました。

悲しみの先にあるもの

大型の台風で甚大な被害が出ていました。

素性を隠してのボランティアは同行を渋られましたが、目立たないようスマホで撮影し、ディレクターも手伝うという約束で許可を得ました。

「売名と言われても偽善と言われても僕はいい」

などと話しました。

だが、過密スケジュールの代償は、ことの他大きかったです。

演奏に妥協できず、練習を重ねるほどに痛みが増すがやめられません。

YOSHIKIさんは以前に、

「悲しみが深いほど美しい音楽を奏でられる」

と語ったことがあります。

YOSHIKIさんは、千葉県館山市の生まれです。

重い喘息を患い、外出はめったに許されず、唯一の楽しみは4歳で始めたピアノでした。

小学5年生の夏休みに父は、突然自ら命を絶ちました。

その後、音楽に縋りつきレコード店に通い詰めました。

大切な人との別れ

世界進出を表明して5年、1997年にX JAPANは、音楽性の違いを理由に解散しました。

解散から5か月後、HIDEがこの世を去りました。

YOSHIKIさんは、解散の100倍つらかったそうです。

自身の音楽活動に終止符を打ち表舞台から身を引きました。

それから1年、当時の天皇陛下の即位10年を祝う奉祝曲の作曲依頼で曲が生まれました。

演奏の前は、降り続いていた雨が止んだそうです。

2022年5月には、母親を亡くしました。

YOSHIKIさんは自身を

「親不孝な息子だった」

と話しました。

楽曲への想い

レコーディングの様子を紹介しました。

意外なほど穏やかでディレクターは、

「今日が一番楽しそう」

などと話しました。

母親の法要は、街全体でForever loveが流れたそうです。

コンサートの様子を紹介しました。

YOSHIKIさんは、

「少しでもいい曲をこれからも作って誰かが一生懸命生きようとか思ってくれればうれしい」

と話します。

プロフェッショナルとは

YOSHIKIさんは、プロフェッショナルとはと言う問いに、

「永遠のアマチュアでいい」

などと話しました。

「音楽にこの身を捧げるつもり」

と話します。

Twitterでの仕事の流儀で特集したYOSHIKIへの反応

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