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ファミリーヒストリーで特集した石橋凌

昨日のファミリーヒストリーで石橋凌さんを特集していました。

長年、映画やドラマで存在感を放ち続ける石橋凌さんは、ロックバンドARBのボーカルとしてデビューし、ソロでも第一線で活躍し、詩を通じて社会に発信し続けました。

様々な役を演じるなかで、自分のルーツが気になったそうです。

石橋凌の謎多き祖父の人生のその足跡が明らかに

石橋家のルーツをたどるために向かったのは福岡県柳川市でした。

4代前、石橋儀三太は現在の柳川市で暮らしていました。

柳川古文書館で儀三太の名をみつけました。

1兆以上の田畑を所収していて、村で3番目の広さでした。

明治19年に生まれたのが守造です。

のちの石橋凌さんの父祖になります。

人生は謎ですが、手がかりがあります。

戸籍をみると守造の妻のアイは広島県出身でした。

取材を進めると呉市に出た経緯も分かってきました。

明治36年、呉市に海軍工場が設置され、軍港として発展しました。

仕事を求め全国から人が集まっていたそうです。

守造が働いていた時期には、労働運動が盛り上がりストライキも置きていました。

大正4年に、のちの父となる久渡が誕生しました。

戸籍によると生まれは神戸市です。

当時暮らしていた場所の近くには、川崎造船所がありました。

守造は、友愛会尻池支部の幹事を務めていました。

労働環境改善のため精力的に活動し、賀川豊彦との同じ壇上に上がっていました。

活動が実を結び、川崎重工では日本初の8時間労働制が実施されました。

その後、上京しました。

神戸で労働者のため活動していた守造は、東京で学生たちを支援していました。

石橋凌の温厚な父の波乱の半生

関東大震災のあと、守造の家族は福岡県柳川市に移り住みました。

守造の息子久渡は、ここでどんな少年時代を過ごしたのでしょうか。

久渡の長男で、凌さんの兄征ニさんのお宅で貴重な資料が見つかりました。

関東大震災の後、守造たちは福井岡県柳川市に移り住みます。

久渡さんの妻が書いた手記が残っていました。

久渡は伝習館に入学しました。

20歳の時に陸軍に入隊し、その後、幹部候補生の試験に合格しました。

太平洋戦争で、戦略上重要とされたマレー作戦に参加しました。

マレー作戦を研究してきた関口さんに話を聞きました。

56連隊の役割を聞きました。

久渡は戦友たちが亡くなる中、総長としての役割を全うします。

その後、マラリアで命の危機に直面し、昭和18年に召集が解除されました。

帰郷し、ゴム製品の会社で働き始めました。

そこで、後に妻となる女性と出会います。

戦国大名とのつながりが石橋凌の母方のルーツ

大分県日田市の中津江村を訪ねました。

母方の祖母の実家のルーツについて気になる情報がありました。

現在当主の津江豊吉さんが、保管されていた古文書を大分県先哲史料館に持ち込み、解読を依頼しました。

江戸時代中期、農家だった津江家の親族同士で交わされた書状だそうです。

かつて津江家は、戦国大名の大友宗麟で知られる大友家に仕えた武士でした。

津江家の菩提寺である伝来寺を開いた長谷部信雄が津江家の先祖にあたります。

粉骨砕身の石橋凌の祖母の半生

津江家で明治24年に生まれたのが凌さんの祖母のミキエさん。

ミキエさんは、かつて大友家のために奔走した津江家の気骨を受け継ぎ、子ども6人のために家事をこなし粉骨砕身働きました。

そんなミキエさんを見て育ったのが凌さんの母である長女の須壽さんです。

看護師を志した須壽さんは専門学校を卒業後、現アサヒシューズに就職し、医局で看護師として働きました。

昭和17年、別の会社へ転職し、招集解除になったばかりの石橋久渡と出会い2年後結婚しました。

母方のルーツを振り返った石橋さんは、自身の母親について

「芯がすごい強い人っていうのは感じてたんですけど、ルーツがやっぱり真面目な家系だったんだな」

とコメントしました。

波乱万丈の父と母の人生

終戦後、石橋久渡と須壽は福岡県みやま市で化粧品店を開業しました。

立地条件もよく繁盛していたそうです。

昭和31年に五男の秀樹、後の石橋凌さんが誕生しました。

しかし翌年、店が差し押さえとなり一家は久留米に移り住みました。

久渡は屋台を引くなど必死に日銭を稼ぎ、家族のために収入を増やそうと佐賀県のパチンコ店に単身で就職しました。

妻の須壽も子育てをしながら地元のデパートの医務室で働きました。

奮闘する父母の子に託した思い

少年時代画家になる夢を抱いていた久渡は、子どもたちに感受性豊かに育ってほしいと願っていました。

経済的には苦しかったのですが、家にはギターやレコードがあったそうです。

単身での生活を続けて8年、久渡は福岡市内の不動産会社に就職を決めました。

家族と一緒にいたいという思いからでした。

昭和44年、久渡は病に倒れ、肝臓がんにより享年54歳でこの世を去りました。

ミュージシャンと言う夢を全力応援した母

父の死から3年、秀樹は福岡県立久留米高等学校に進学し、音楽にのめりこみました。

プロのミュージシャンになりたいと口にする秀樹に教師は反対しましたが、亡き夫の思いを誰よりも知っていた母の須壽は秀樹の夢を全力で応援しました。

石橋凌さんは父について、

「その当時は親として当たり前じゃんって思ってたんですよ。商売をやっていたのに一会社員になった親父の気持ちなんてわからないですから」

と振り返りました。

ミュージシャンと俳優に全力で挑み続ける

昭和53年、石橋凌さんはARBのボーカルとしてデビューしました。

昭和61年には松田優作監督の映画、ア・ホーマンス」に出演しました。

ミュージシャンと俳優、両方で活躍を続けていきます。

母の須壽は80歳まで看護師として働き、2020年に享年102歳でこの世を去りました。

50代で亡くなった夫の分まで懸命に生き抜いた人生でした。

石橋さんは自身のファミリーヒストリーを涙を流しながら鑑賞し、母親から

「エネルギーだとか前向きというところを見て学んだと思うんです」

と語りました。

Twitterでのファミリーヒストリーで特集した石橋凌への反応

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