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林修の今知りたいでしょで特集した鎌倉時代のスゴい偉人をまとめてみた

昨日の林修の今知りたいでしょで特集した鎌倉時代のスゴい偉人をまとめてみました。

鎌倉時代の偉人上位13人

歴史のプロが選んだ本当にスゴい鎌倉時代の偉人上位13人を発表しました。

第13位 源実朝

第13位は、源実朝です。

源頼朝と北条政子の息子で、鎌倉幕府三代将軍です。

1219年1月、鶴岡八幡宮で参拝後に公暁に暗殺され、28歳でこの世を去った悲劇の将軍です。

源実朝の首は、神奈川県秦野市の首塚に眠っています。

公暁は暗殺後、源実朝の首を持って持ち歩いていました。

しかし公暁も罪人として殺されてしまいました。

その後、源実朝を慕っていた御家人が首を供養したと言われています。

歴史のプロが源実朝のスゴいところを紹介しました。

「朝廷と友好的な関係を築いたこと」

「歌人としての素晴らしさ」

が紹介されました。

暗殺される当日には、

「出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな」

と、暗殺されることを予想していたような歌を詠んでいました。

さらに暗殺当日、源実朝は髪を結ってくれた家来に形見と言って髪の毛を渡したとも言われています。

第12位 後白河法皇

第12位は、後白河法皇です。

源氏や平家を翻弄した朝廷の支配者で、頼朝は日本第一の大天狗と言っています。

国宝に指定されている京都府三十三間堂で後白河法皇にまつわる事柄を長谷健生さんと新内眞衣さんが調査しました。

三十三間堂は、後白河法皇の命令で作られたものです。

また建てる費用を提供したのが平清盛でした。

後白河法皇にとって平清盛は、部下の1人のためコントロールができなくなると後白河法皇は態度を変え絶縁しました。

また源義経、源頼朝の運命を分けたのも後白河法皇でした。

後白河法皇は、源頼朝、源義経の運命を左右しました。

源頼朝が幕府を開き全国に支配を広げ始めると、後白河法皇は源義経を朝廷に引き込み

「源頼朝を討て」

と命令しました。

しかし武士たちは源義経についてきませんでした。

これをみた後白河法皇は、源頼朝に源義経を討ってもらうことにしました。

源義経は、自害しました。

三十三間堂の約120メートルある軒下では、通し矢が行われています。

第11位 源義経

第11位は、源義経です。

大山祇神社では、源義経の戦へのこだわりが見える鎧があります。

その鎧が赤糸縅鎧 大袖付です。

源義経の鎧は、草摺が7枚となっていました。

通常の大鎧は4枚です。

馬上より地上での動きやすさを考えて作られています。

また源義経が鎧を作るときにこだわったのが派手な鎧でした。

鎌倉時代の戦は、自分の活躍を見せつける必要がありました。

源義経の有名な戦いは壇ノ浦の戦いや一ノ谷の戦いなどですが、歴史のプロが注目した戦が木曽義仲を追い落とした電撃上洛作戦でした。

菱沼さんは、

「源義経のスタイルがよく表れている」

などと話しました。

電撃上洛作戦は、突然義経軍が一気に激増し、木曽義仲は後白河法皇を連れて逃げ出そうとしますが、源義経が現れ討ち取られました。

元々源義経は、大軍で京都に進軍していましたが、途中偽の情報を流し、木曽義仲を油断させました。

さらに源義経は、木曽義仲軍が混乱する間に別働隊を編成していました。

その後義経は、平家を滅ぼし歴史に名を残しました。

第10位 慈円

第10位は、慈円です。

慈円は、愚管抄という歴史哲学書を書きました。

愚管抄がなければ鎌倉時代のことはほとんどわからなかった可能性があります。

歴史の当事者にインタビューし、どんな史実があったか探求しました。

愚管抄は、後鳥羽上皇へのメッセージとして書かれたとも言われています。

慈円は、後鳥羽天皇の側近でした。

慈円が愚管抄に込めた後鳥羽上皇へのメッセージが、青蓮院門跡に伝わっています。

それは慈円自筆四天王寺聖霊院願文案で、承久の乱を止めたいと言うのが愚管抄を書いた理由だと記されていました。

慈円は、鎌倉幕府を快く思っていない後鳥羽上皇が、いつか戦争を仕掛けるのではという危機感を抱いていました。

慈円が選んだのは、武士がどのようにして権力を握ることになったのかと言う歴史を正確に書き記すことでした。

第9位 重源

第9位は、重源です。

重源は61歳で東大寺の再建を指揮しました。

再建には莫大な資金や資材が必要でした。

大仏殿を作るためには巨大な材木が必要ですが、巨大な材木を手に入れられる場所がありませんでした。

重源は、木材が豊富な山口での指揮を任せられ、木材調達のためすぐに現地へ向かいました。

61歳にして長旅をするのは超人的な行動力でした。

また材木を運ぶため、源頼朝に協力をあおぎ、大仏様と大仏殿を再建しました。

第8位 大江広元

第8位は、大江広元です。

頼朝は、大江広元を鎌倉にスカウトしました。

正式な文書を書ける人材が必要でした。

大江広元の墓は、源頼朝、北条義時の墓のすぐ近くにあります。

大江広元が頼朝から信頼され、義時と共に幕府を支えていた功績を世に広めようと墓の近くに作りました。

また大江広元は、頼朝が支配を安定させる作戦を練っていたところ、大江広元が御家人たちに与えてきた土地の支配権を地頭という名前で朝廷に正式に認めさせる提案をしました。

守護地頭制度によって鎌倉幕府が成立した説が有力です。

また承久の乱で幕府軍が京都に攻め上がることを提案しました。

そして京都で圧倒的な勝利を収めました。

第7位 後鳥羽上皇

第7位は、後鳥羽上皇です。

後鳥羽上皇は、多彩のスーパーマンだそうです。

後鳥羽天皇御火葬塚で、村上助九郎さんが墓の掃除をしていました。

村上助九郎さんの先祖は、島の海運業を取り仕切っていて、後鳥羽上皇の世話をしていました。

今も先祖代々お墓を守っているそうです。

村上助九郎さんは、

「私の家で亡くなられた」

などと話しました。

村上助九郎さんが住んでいた家には、ゆかりのある貴重な品がいくつも残されています。

また隠岐神社に、刀が残されています。

後鳥羽上皇は、刀に力を入れた人でした。

上皇自ら刀を作るのは前代未聞でしたが、後鳥羽上皇自ら刀を打っていました。

後鳥羽上皇が即位するとき、壇ノ浦の戦いで草薙剣が海の中に投じられたため刀がありませんでした。

また後鳥羽上皇には、蹴鞠の才能もありました。

新記録達成を記念して、使った鞠に感謝を込めて鞠を貴族にしました。

第6位 運慶

第6位は、運慶です。

運慶は、日本で最も有名な仏師です。

運慶は、奈良で活動していましたが、関東の武士たちに大人気であったため、和田義盛ら有力武士たちが運慶に仏像を発注しました。

人気の理由は、浄楽寺の阿弥陀如来像にありました。

仏像の常識をひっくり返した運慶の仏像に、鎌倉の武士たちはビックリしました。

仏像の特徴は、目つきの鋭さやたくましい体でした。

第5位 平清盛

第5位は、平清盛です。

歴史のプロが注目したのは、超画期的な発想でした。

平清盛は、厳島神社の元の小さな神社を大々的に改修する際にバックアップしました。

平清盛は若い頃、瀬戸内海で海賊を退治する仕事をしていました。

瀬戸内海に浮かぶ宮島に、海難避けのシンボルとして、竜の神様が住む竜宮城、つまり厳島神社を建てたと言われています。

厳島神社の曲がりくねった回廊は、竜の体を表現しているとも言われています。

さらに、厳島神社の入江になっている場所は、かつて陸地だった可能性が指摘されています。

平清盛は陸地を掘削し、海水を引き込み、人工的に海を作ったのかもしれません。

第4位 北条義時

第4位は、北条義時です。

姉の北条政子が源頼朝と結婚したこともあり、若い頃から源頼朝に仕え、信頼されていました。

源頼朝の死後は将軍の補佐として幕府を支え、ライバルたちとの戦いに打ち勝ち、大きな権力を獲得しました。

京都の石清水八幡宮にある北条義時直筆の文書からは、北条義時の柔軟で公平な政治力を伺い知ることができます。

朝廷と幕府の戦いである承久の乱の際、後鳥羽上皇は北条義時を追討するよう指示する文書を出しましたが、この文書は西国の武士には届きましたが、鎌倉の武士たちには届きませんでした。

その理由は、この密書を持った使者が北条義時の指示もあり事前に捕らえられたからです。

冷酷な人間だと思われがちな北条義時ですが、雷を恐れるなど弱い一面もありました。

吾妻鏡によると北条義時は、62歳のとき脚気で病死したとされていますが、妻に毒殺されたとする説もあります。

第3位 北条泰時

第3位は、北条泰時です。

北条義時の息子で、鎌倉幕府の三代執権としても有名です。

北条泰時の功績は、鎌倉の街でみることができます。

鎌倉は山と海に囲まれた城塞都市でした。

山を切り崩して道を作る必要がありました。

しかし単純に山を切り崩しては、敵が侵入してしまいます。

そこで、切通という細い道を作りました。

切通には通行を妨げる仕掛けが施されました。

今も鎌倉七口と呼ばれるその名残があります。

また、物資の輸出入をスムーズにするよう整備された切通もあり、鎌倉の発展に貢献しました。

さらに1232年に制定された御成敗式目と呼ばれる土地、仕事、相続の問題など、公平に裁けるような判断の基準を示した書も北条泰時によるものです。

北条泰時は、平和で活気ある鎌倉作りに貢献しました。

第2位 北条政子

第2位は、北条政子です。

源頼朝の妻で、政治力が高く、承久の乱の際には御家人たちを大演説で鼓舞し、朝廷軍に圧勝しました。

浅草寺の宝蔵門には、北条政子の政治力を知ることができるお宝があるそうです。

浅草寺の宝蔵門には、仏教に関する膨大な情報を一つにまとめた経典と書物である

「一切経」

があります。

仏教の教えだけでなく、医学、数学、天文学、建築学などあらゆる学問の情報が含まれています。

この一切経は、北条政子が中国から取り寄せて鶴岡八幡宮に奉納したと伝えられています。

中世の一切経は、京都などの一部の寺院しか持っていませんでしたが、朝廷と同じような行事を行えることが政治や人を支配するためには、権威の象徴となるため極めて重要だったため、取り寄せられました。

北条政子は、法による社会の統率を目指していましたが、69歳でこの世を去り、その意思は息子の北条泰時に受け継がれました。

第1位 源頼朝

第1位は、源頼朝です。

源頼朝が絶体絶命のピンチを迎えた場所は、神奈川県大観山の中腹でした。

1180年、源頼朝は平家に対して挙兵しましたが敗北し、数名の味方と山中の洞窟、しとどの窟に逃げ込みました。

洞窟に5日間身を潜めましたが、一説では平家方の梶原景時に見つかったと言われています。

源頼朝は、どう切り抜けたのでしょうか。

源頼朝が大ピンチに陥ったしとどの窟に残されているエピソード

身を潜めて数日が経った時、源頼朝たちは追ってきた敵方の武将である梶原景時に見つかってしまいました。

しかし、梶原景時は軍勢を引き返させました。

源頼朝に同情したからとも言われています。

ピンチを乗り越えた源頼朝は海を渡って安房に逃亡しました。

7名で逃げていましたが、次々と武士を味方につけ、鎌倉に入る頃には5万人を率いていました。

東国武士の中には平家に反感を持っていた者もいて、

「源頼朝の人心掌握術もあったのでは」

と専門家は話しました。

源頼朝は挙兵前に味方になってくれそうな皇族を呼び出し

「お前だけが頼りだ」

と話していました。

さらに、御家人たちとの関係性を築くために、戦に勝つと恩賞として領地を次々に与え、信頼感を得ていました。

Twitterでの林修の今知りたいでしょで特集した鎌倉時代のスゴい偉人への反応

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