
どうも、皆さんこんにちは。
アラ還おやじです。
今日もブログに遊びに来てくれてありがとうございます。
ふとした瞬間に、昔の記憶が鮮明に蘇ることってありませんか?
今回は、僕たち
「昭和世代」
が過ごした、あの懐かしくも温かい小学校時代について語り合いたいと思います。
始まりは、黄色い帽子と夕暮れの通学路
夕暮れが近づく頃、学校から帰る通学路には、柔らかい光が差し込んでいました。
みんなでかぶった
「黄色い帽子」
が夕日に照らされ、トボトボと歩く足音と、
「さよなら」
の挨拶が自然に重なり合う。そんな毎日でした。
あの頃の僕たちは、世界はとても安全だと信じていました。
それは家族がいたからだけではありません。
近所の頑固なおじいさんや、洗濯物を干しているおばちゃん。
周りにいる大人たちが、みんなで僕たちを静かに見守ってくれていたからです。
重たいランドセルを背負いながらも、なぜか心は不思議と軽かった。
「おはよう」
「さよなら」
という言葉は、考えなくても口から自然に出てきました。
昭和という時代、子供は地域全体で育てられていたのですね。
厳しい先生と、穴だらけの木の机

昭和の教室に入ると、そこにはたくさんの友達がいました。
1クラス40人以上が当たり前。
机と椅子は隙間なくぎっしりと並んでいました。
先生が教室に入ってくると、それだけで空気がピリッと変わります。
当時の先生は、本当に厳しかった。
忘れ物をすればこっぴどく叱られ、授業中にこっそり話をすればすぐに飛んできました。
子供にとっては怖い存在でしたが、今振り返ると、あの厳しさは
「愛情」
と
「責任」
の裏返しだったのだと思えます。
何が良くて、何がいけないのか。
集団の中でどう振る舞うべきか。
先生は、勉強以上に
「人として生きるための訓練」
をさせてくれていたのです。
そうそう、皆さんの机はどうでしたか?
私たちの机は木製で、長い年月使われてきたものでした。
好奇心でコンパスの針をそっと刺してみたりして、気がつけば机の表面は無数の小さな穴だらけ。
「穴だらけの机に当たってガッカリ」
なんてこともありましたが、あの傷一つひとつに、先輩たちの笑い声やいたずらが刻まれていたのですね。
給食の時間は、忍耐と笑いの時間
昭和の給食は、ただ食べるだけの時間ではありませんでした。
「出されたものは、残さず全部食べる」
これが絶対のルールでした。
好き嫌いがある子にとって、あの時間は忍耐の場です。
昼休みのチャイムが鳴っても、まだ席に残って静かに食べ続ける友達が一人や二人は必ずいました。
コッソリ袋に入れて持ち帰ろうとして、帰り道にランドセルの中で汁が漏れて大惨事…
なんてこともありましたね。
机の引き出しの奥から、カチカチに硬くなったパンが出てきて、みんなで大笑いしたことも。
給食の時間は、食べ物の大切さと、自分の役割を最後まで果たすことを教えてくれた、大切な修行の時間でもありました。
煙の匂いと、雑巾がけの思い出
掃除の時間になると、みんなで一斉に役割分担をしました。
床を掃く人、黒板を拭く人。
当たり前の習慣として、僕たちは教室を磨きました。
集めたゴミを校庭の隅にある
「焼却炉(しょうきゃくろ)」
へ運ぶと、そこにはいつも用務員さんが立っていました。
多くを語らないけれど、いつも穏やかに僕たちを見てくれていた存在。
火がつくと、夕方の空気に煙の匂いが広がり、
「ああ、今日も一日が終わるんだな」
と胸に染みたものです。
その後は、廊下で雑巾がけレース。
木の床がツルツルになるまで磨き、調子に乗って滑って転んで。
注意されても笑いが止まらない。
そんな時間の中で、僕たちは協力することの楽しさを学んでいました。
まとめ!僕たちが受け取っていた「安心感」
長い年月が過ぎ、学校を卒業して随分経ちましたが、心に残っているのはテストの点数ではありません。
- 厳しくも温かかった先生の顔
- 一緒に笑い、一緒に叱られた友達
- 夕暮れの焼却炉のそばにいた用務員さん
昭和の学校生活は、決して完璧ではありませんでした。
でも、そこには
「人と共に生きる感覚」
が確かにありました。
規律の中で思いやりを学び、日常の中で人のぬくもりを知りました。
振り返った時に感じる
「自分たちは守られていたんだ」
という安心感。
その記憶が、還暦を過ぎた今の僕たちの、静かな支えになっているような気がします。
皆さんの思い出の教室には、どんな風景が広がっていますか?