オリンピックが間近に迫ってきたこのところ、何かと物議を呼んでいる、障害者いじめの過去を持つ小山田圭吾氏がオリンピックの作曲担当に起用されたという話題。
Twitterなんかでも、随分と騒がれていますね。
これは作品やミュージシャンとしての価値や評価の問題ではなく、あくまでも「オリンピック・パラリンピック」という特定の行事の趣旨にふさわしい人選かという問題なので、本人の言動が議論になることは避けられない。https://t.co/aUwQB1eY74
— Shin Hori (@ShinHori1) July 15, 2021
小山田圭吾のいじめの話が問題なのは、いじめてた当時の問題よりも、何年も経って有名人になってからそれを笑い話にした問題の方が大きい。
— kmiura (@kmiura) July 15, 2021
小山田圭吾のいじめ告白問題、25年前の話だからもう時効とかでは全然なく、25年間何の謝罪もケジメもなくずっと放置し続けた結果としての現状なので、むしろ今どう対応するのかが問われているのでは。
— ユリイカ (@eureka) July 15, 2021
noteマガジン:コーネリアス小山田の鬼畜の所業と、大人になってもそれを武勇伝の如く語っている事実について思ったことを書きました。「高い倫理性」とか笑わせんな、という話です。https://t.co/5OpLhstNF1
— 飯山陽 Dr. Akari IIYAMA『イスラム教再考』4刷決定 (@IiyamaAkari) July 17, 2021
実は、アラ還おやじは、障害者、正確には聴覚障害者で、障害者手帳を所持しています。
そして、悲しいかなアラ還おやじも、子どものころ、いじめられっ子でした。
そんなアラ還おやじからみた、今回の小山田圭吾氏の過去の障害者いじめという過去の事実は、蒸し返すことは良くないとは分かっていても、当時の被害者と言えるいじめの対象になった障害者やご家族の心中を考えれば、穏やかではありません。
障害者に対するいじめであろうが、誰に対するいじめであろうが、いじめは許されることではないということは、極当たり前のことです。
今回、オリンピックの作曲担当に起用された小山田圭吾氏の場合、過去に障害者いじめした事実があるだけではなく、その事実を、雑誌のインタビューで、あたかも面白いこと、娯楽かの如く、自慢げに語っていたという事実があります。
いじめる側の心理と言うか、倫理観、そのものと言える行動なのではないでしょうか。
そして、そのときから今まで、何の謝罪も無く過ごしてきた。
これも、いじめる側の心理、倫理観、そのものなのではないでしょうか。
得てして、いじめ問題においては、いじめる側というのは、いじめに対する罪悪感など持っていないことが、ほとんどです。
いじめる側にとって、それは、いじめという犯罪ではなく、遊びであり、ジョークでしかないからです。
今まで、何の謝罪も無いというのは、オリンピックの作曲担当として起用された障害者いじめの過去を持つ小山田圭吾氏の中に、そんな心理、倫理観があったと同時に、もう、過去のこととして、忘却の彼方にあったからではないでしょうか。
あくまで、これは、アラ還おやじの憶測でしかありませんが。
大人になって、過去に、アラ還おやじをいじめていた連中と会ったときに驚いたのは、過去の事実、アラ還おやじをいじめていたという事実を、忘れてしまっていたということです。
やる側、やった側は、得てして、その事実を覚えていないことが多いものです。
でも、やられた側は、決して忘れることはありません。
その傷は、いつまでも残り続けるというのが、事実なのですから。
ですから、障害者いじめの過去を持つ小山田圭吾氏がオリンピックの作曲担当として起用されたという事実に、違和感を覚えてしまいます。
障害者をいじめた側にどんな理由があっていじめたのかは関係ない
いじめの話題が出たときに、アラ還おやじは、どうしても、言葉は悪いですが、「胸糞悪く」なります。
障害者いじめの過去を持つ小山田圭吾氏がオリンピックの作曲担当として起用されたいうニュースを目にしたときも同じでした。
障害者をいじめた側にも理由はあるかもしれません。
しかし、どんな理由があっていじめたのかは、いじめの事実がある以上関係ないことなのです。
ターゲットを、おもちゃをもてあそぶかの如く、言葉で責め、時には、腕力でねじ伏せようとする。
考えようとしなくても、過去の、それも遠い過去、子どものころに受けたいじめを思い出してしまいます。
小山田圭吾氏も、そのように、いじめ、それも、障害者と言う立場の人間をいじめていたのではと思うと、やりきれなさ、悔しさ、恐さが溢れてきてしまいます。
オリンピック・パラリンピックという世界的な事業に、起用された小山田圭吾氏というミュージシャンとしての資質ではなく、人間としての資質を問われて当たり前なのではないでしょうか。
ネット上では、障害者いじめの過去を持つ小山田圭吾氏がオリンピックの作曲担当に起用されたということも絡んでか、擁護する意見もたくさん見受けられます。
しかし、実際にいじめられた経験を持つ人間や障害者という立場からみた場合、小山田圭吾氏が果たして、オリンピック・パラリンピックの作曲担当として起用されることが如何なものかと思うのは、当然のことなのではないでしょうか。
オリンピックの後に引き続き開催されるパラリンピックという事業が、どんな事業なのかを考えれば、殊更、疑問を投げかけてしまうのではないでしょうか。
障害者をいじめた側に、どんな理由があったとしても、いじめという事実の前には関係なく、違和感を覚えさせるだけなのではないでしょうか。
五輪憲章はいかなる差別にも反対している
オリンピック憲章というものをご存じでしょうか。
そのオリンピック憲章の第1章には、
「オリンピズムの原則」というものを規定しています。
- オリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない
- オリンピック ・ ムーブメントの一員となるには、オリンピック憲章の遵守および IOC による承認が必要である
つまり、いかなる差別も認めないと規定されているわけです。
そして、オリンピックの一員、つまりスタッフになるためには。このオリンピック憲章を守らなければならないとされているわけです。
小山田圭吾氏の過去に行った障害者に対するいじめ。
その行動は、まさに、差別的行動です。
過去のことかも知れません。
確かに、過去の罪を悔い改め更生しているかも知れません。
しかし、それでも、いじめられた経験のある者、障害者という立場の人間からしてみれば、過敏になってしまう人選なのです。
罪を憎んで、人を憎まずという言葉もあります。
それを、頭では分かっていても、心が叫んでしまうこともあるのが事実です。
障害者いじめの過去を持つ小山田圭吾氏がオリンピックの作曲を担当するということについて、心が叫んでしまったのは、果たして、アラ還おやじだけなのでしょうか?
Twitterに掲載された小山田圭吾氏の謝罪文
(原文まま)
この度は、東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への私の参加につきまして、多くの方々を大変不快なお気持ちにさせることとなり、誠に申し訳ございません。
心よりお詫び申し上げます。
ご指摘頂いております通り、過去の雑誌インタビューにおきまして、学生時代のクラスメイトおよび近隣学校の障がいを持つ方々に対する心ない発言や行為を、当時、反省することなく語っていたことは 事実であり、非難されることは当然であると真摯に受け止めております。
私の発言や行為によって傷付けてしまったクラスメイトやその親御さんには心から申し訳なく、本来は楽しい思い出を作るはずである学校生活において、良い友人にならず、それどころか傷付ける立場になってしまったことに、深い後悔と責任を感じております。
学生時代、そしてインタビュー当時の私は、被害者である方々の気持ちを想像することができない、非常に未熟な人間であったと思います。
記事の内容につきましては、発売前の原稿確認ができなかったこともあり、事実と異なる内容も多く記載されておりますが、学生当時、私の発言や行為によってクラスメイトを傷付けたことは間違いなく、その自覚もあったため、自己責任であると感じ、誤った内容や誇張への指摘をせず、当時はそのまま静観するという判断に至っておりました。
また、そういった過去の言動に対して、自分自身でも長らく罪悪感を抱えていたにも関わらず、これまで自らの言葉で経緯の説明や謝罪をしてこなかったことにつきましても、とても愚かな自己保身であったと思います。
それにより、当時のクラスメイトだけでなく、学生時代に辛い体験をされた方々やそのご家族、応援してくださるファンの方々に対しても、不誠実な態度を取り続けることになってしまいました。本当に申し訳ありません。
学生当時、私が傷付けてしまったご本人に対しましては、大変今更ではありますが、連絡を取れる手段を探し、受け入れてもらえるのであれば、直接謝罪をしたいと思っております。
今回、私が東京2020オリンピック・パラリンピック大会に携わることにつきまして、否定的なご意見を頂くのは尤もであると思います。
また、このコロナ禍において、国民の皆様が不安を抱えるなかでの大会開催に関与することへの疑問のご意見も頂戴しております。
本来であれば、様々な理由から、私の参加にご不快になられる方がいらっしゃることを考慮し、依頼を辞退すべきだったのかもしれません。
しかし、課題も多く困難な状況のなか、開会式を少しでも良いものにしようと奮闘されていらっしゃるクリエイターの方々の覚悟と不安の両方をお伺いし、熟考した結果、自分の音楽が何か少しでもお力になれるのであればという思いから、ご依頼を受けるに至りました。
そのうえで、今回の音楽制作にあたりましては、自分なりに精一杯取り組んで参りました。
それは、私だけではなく、他のクリエイターの方々も同様であると思います。
故に、私の関与により、開会式へ不快な印象を与えてしまうことを心から申し訳なく思います。
この度、様々なご指摘を頂いたことで、あらためて、自分自身の在り方について振り返り、反省と再考をさせて頂く機会を得ました。
それにつきましては、ご意見をくださった皆様に、感謝すべきことだと感じております。
私が傷付けてしまったクラスメイトご本人へはもちろんのこと、長年の私の不誠実な態度により、不信感や不快感を与えてきてしまったファンの皆様や友人たち、関係者の皆様に、心からお詫び申し上げます。
一人の人間として、また、音楽家としてどう在るべきか、自分は世の中や周囲の人々に対して、どういったかたちで貢献していくことができるのか、常に自問自答し、より最善の判断をしていけるよう、一層の努力をして参りたいと思います。
小山田圭吾
2021年7月16日
まとめ
今回の、障害者いじめの過去を持つ小山田圭吾氏がオリンピックの作曲担当に起用されたという事実。
確かに、人間誰しも、完璧で清廉潔白な人生を送っているわけではありません。
誰でもそうですが、若いころには、若気の至りとも言える過ちもあるでしょう。
だから、いじめた経験がある人間が、五輪の開会式に携わるのが問題だということではありません。
社会的に影響力が強いミュージシャンである小山田圭吾氏が、非常にたくさんの人が目にする雑誌で、自分が正義と言わんばかり主張をしていたという事実。
そして、その後、事実に対する謝罪なども無く現在まで来て、いきなりオリンピックの作曲担当に起用と言うニュース。
過去の障害者いじめと言う事実に対する謝罪などもないまま現在まで来たということは、少なからず、小山田圭吾氏は、今も同じ考えであると勘繰られても仕方がないのではないでしょうか。
この騒動が起きてからの慌ててのTwitterへの謝罪文掲載は、さらに、疑念を抱かせるだけに終わったように感じます。